ども、杉野です。
つい先日のこと。
電車の椅子に座って華麗な手さばきでスマホを操作していると、ある突拍子もないアイデアが降ってきました。
それは
「チキンラーメンで炊き込みご飯を作ったら絶対美味い!」
自分でもなぜそれを閃いたのかはさっぱり分かりません。
が、むちゃくちゃ自信があったのでクックパッドで「チキンラーメン 炊飯器」と検索してみたら、そこには結構な数の投稿があるではありませんか。
だよなー、やっぱそうだよなー(ニヤニヤ)
無性に嬉しくなった僕がその日早速チキンラーメンを買い、期待に胸膨らませながら炊き込みご飯を作ったのは言うまでもありません。
もぐもぐ。
それは一言で言えば、美味しさのルールに則った料理だからです。
チキンラーメンクラスになると、もはや万能ルールと呼んでもいいぐらい基本的に何を具にしても美味しく食べることができます、革靴とか。
よく料理をする人であれば、酒と醤油とみりんで煮込みさえすれば大抵の食材は美味しく食べられることは知っていると思います、革靴とか。
それも1つのルールです、革靴とか。
そう考えるとチキンラーメンには
「チキンラーメンには何を入れても美味しい」というルールが内在していることになります。
チキンラーメンという材料を使った時点で、料理が一定以上美味しくなることは既に決まっているからです。
ただチキンラーメンにルールが内在しているからと言って、そのルールを完全に活かせるかどうかはまた話が違ってきます。
例えばチキンラーメンにタケノコを入れたら美味しいというルールがあったとしても、タケノコを入れるという発想を思いつかなければそのルールは存在しないに等しいワケです。
ましてや革靴を食べようなどと思う人はほぼ皆無でしょう(本物の皮靴は食べることができます)。
アートとは、誰もが知っている一般的なルールから逸脱することで世界に内在するまだ見ぬルールに寄り添うことなのです。
アートが何であるかを考える切り口として、アートでないものがなぜアートではないのかを考えることは有効かもしれません。
僕を含め、チキンラーメンがアートだと思う人は恐らくいないと思います。
なぜか。
チキンラーメンを見ても、僕らが不機嫌になったり混乱したり不安になったり戸惑ったり不思議に思ったり眠れなくなったりしないから
です。
じゃあチキンラーメンを帽子にしてかぶっている人を見かけたらどうでしょう?
チキンラーメンを敷布団にして寝ている人を見かけたら?
いろんな感想があると思いますが、大体は「引く」んじゃないでしょうか。
このような周りが引くようなことこそ、アートがアートであるための入り口なのです。
先ほど挙げた例は僕らのチキンラーメン観、もとい、チキンラーメンのルールから逸脱しています。
あれらはルールを無視しただけの奇をてらったものに過ぎませんが、ルールから外れるという点ではアートな試みです。
アートとして足りないのは、世界に内在するルールに寄り添えていないこと。
ここがアートになれるか否かを分かちます。
アートというとピカソやモネ、ゴッホなどの画家を想像すると思いますが、アートをアート思考という枠組みで考えるならニュートンやガリレオ、ダーウィン、アインシュタイン、ハイデガーなど名立たる偉人がやったことはすべてアートです。
ニュートンやガリレオ、ダーウィンの発見はキリスト教を根本から揺るがし、アイシュタインは人類の世界観をぶち壊し、ハイデガーは僕らの認識そのもののあり方を覆しました。
それによって彼らは世界から様々な感情を、ときに暴力をぶつけられたワケですが、それがアートがアートである証拠です。
最良の書物とは、読者の既に知っていることを教えてくれるものである。
ジョージ・オーウェル著『オーウェル評論集1 像を撃つ』
僕はこのオーウェルの言葉はアート思考の核だと思っています。
アートとは、僕らが既に知っているけれども誰も気付いていない何か(まだ見ぬルール)を誰よりも先に発見・提示することなのです。
最後に少し不謹慎な問いを立ててみました。
怒らないでちょ。
食べ物を粗末に扱った動画がYoutubeにたくさんアップされているのはご存知だと思いますが、そういう気分を害したり嫌悪したりするようなものこそアートな試みであることを僕らは覚えておくべきだと思います。
コンビニ弁当の廃棄、飲食店の残飯廃棄、農家の規格外品の廃棄・・・そういったことが何の罪悪感もなく行われている日常を考えるならば、「粗末にする」という言葉の定義自体がもはや僕らが思っているものとは違うのかもしれません。
感情の揺れはアートの始まりです。
自分と向き合うことがアート思考のプロセスの最初に設定されているのは、そういったところに関係があるんじゃないでしょうか。
ありがとうございました。