ども、杉野です。
何か月か前に僕のバイト先に来たお客さんがこんな話をしていました。
Aさん「ここも中国人多いなぁ。俺あいつら嫌いやねん!」
Bさん「それって差別やぞ、お前」
Aさん「そうやで。別にええやんけ、差別しても。嫌いやねんから」
あなたはこれを読んでどう思いますか?
一般的(道徳的)には恐らくBさんが正しいという解釈になると思うんですが、僕はどちらが正しいというよりAさんのような存在が許されるということの方が何倍も大事な気がしました。
というのは、僕はこの話を聞いて多様性という言葉が頭に浮かんだからです。
ここ最近、多様性という言葉を耳にする機会が増えました。
僕も世の中が多様であることは素晴らしいことだと思いますし、多様であること・多様化のプロセスそのものが生命の目的であるとすら思っています。
ただ僕だけかもしれませんが、僕らが使う多様性という言葉の裏には
「多様でなければならない」
「何もかも受け入れなければならない」
という価値観が潜んでいるように感じるのです。
上の話でBさんは「差別はダメだ!」ということを言っているワケですが、それ自体が中国人を差別しているAさんを差別していると思いませんか?
同じように「多様性が大事だ!」と言っている僕らは「多様性なんてどうでもいい!」という価値観をどこか見下したり差別したりしていないでしょうか?
それは本当に多様性を大事にしていることになるのでしょうか?
多様性を連呼する社会には、こういう欺瞞があるように思えてならないのです。
なぜ多様なあり方を欲しながらも多様性を排除するような社会が生まれるのか。
それは
多様なあり方を受け入れる土壌ができていない
にもかかわらず、多様であることが素晴らしいという価値観だけが独り歩きしているからです。
別の言い方をすると
それぞれのつながり(関係性)ができる前に、いろんな価値観だけが世の中に溢れかえってごちゃ混ぜになってしまった
からです。
これを相対主義と言います。
相対主義とは、表面的には「いろんな価値観を認めます」と言いながらも「でも俺の邪魔になることはするなよ」という意味をはらんだ、自己中で冷たい考え方です。
実際、どれだけ多様性が大事だと言っている人でも、土足で自宅の畳の上を歩く外国人が現れたら相当ムカつくだろうし、怒ると思います。
今時そんな外国人はいないかもしれないですが、相対主義とは要はそういうことです。
けれどもその外国人とめちゃくちゃ仲が良かったとしたら、対話という道が開かれます。
そこでは「なぜ畳の上を靴で歩いてはいけないのか」についてお互い納得がいくまで話し合い、きっと喧嘩や争いは起こらないでしょう。
つまり
多様性とは、相互理解と関係性があってはじめて意味や価値を持つ概念なのです。
もうお分かりのように、僕ら現代人はまだ多様性という概念には非対応です。
翻訳などのテクノロジーが時代に追いつくまでは、ヘレニズム時代よろしく、相対主義的な混乱は続くと思います。
冒頭の差別の話はその一例に過ぎません。
僕らの「差別」が「区別」に変化するまでにはもっと時間が必要です。
多様であるだけならそこには何の価値もありません。
すべては「つながり」で決まります。
最初に関係がある
グレゴリー・ベイトソン著『精神と自然 -生きた世界の認識論』
何十年も前に語られたこのベイトソンの言葉は、今後ますます意味を深めていくかもしれませんね。
ありがとうございました。