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パラダイムシフトを起こす!公案(禅問答)の5つの例を解説

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ども、杉野です。

両手をたたくとパンッと音がする、では片手ではどんな音がするか。

これは『隻手の声』という有名な公案(禅問答)です。

禅にはこれ以外にもたくさん面白い公案の例があるのですが、一般にはあまり知られていません。

そこで今回は、数ある公案の中から僕が選んだ5つの公案を紹介していこうと思います。

もっと詳しいことや他の公案の例を知りたい場合は、各項で紹介している本を参考にしてみてください。

 

公案(禅問答)の例1

道吾禅師は八世紀唐代の禅師であった。彼のところに若い雲水が修行に来ていた。

何ヶ月か師と共に起居していたけれども、師はいっこうに何もこれといったことを教えてはくれない。そこである日この弟子は師匠の部屋に行ってたずねた。

 

弟子
長い間、私は老子のところにお世話になっているのですけれども、いっこうにお教えらしきものをいただけませんのですが、なぜでございましょう。 
弟子
どうかお慈悲をもって何か私にお教えを賜りとうございます。
道吾禅師
なに、教えてくれとな。
道吾禅師
わしはお前がここへやってきたその時からずっと教え通しているではないか。
弟子
それはいったいどんなお教えでしょうか。私はとんと気付きませんでしたのですが。
道吾禅師
朝になればお前は「おはようございます」と挨拶する。わしもまた「あぁ、おはよう」と答えている。
道吾禅師
お前が朝のお粥を持ってきてくれれば、わしは合掌してこれを受け取っておる。
道吾禅師
いったいこの他に示すべき教えがどこにあるのか。

 

こう言われた弟子は頭を垂れて、この師の言葉の意味を読み取ろうとわれを忘れたようになっていると、師はさらに言葉をついで、

 

道吾禅師
考えたらもはやそこにはない。考えるのではなく、じかに見て取れ。あれこれと思い迷ったり、頭で解釈するんじゃないわい。

 

と。ここで弟子は初めて悟った。

(引用元:鈴木大拙、エーリッヒ・フロム、リチャード・デマルティーノ著『禅と精神分析』 P36-37)

 

例1の解説

この公案が伝えているのは当たり前を当たり前だと思うなということです。

僕は「時給」って凄く贅沢な仕組みだと思うんですよね。

お店に客が入ろうが入らなかろうが、売上が低かろうが赤字だろうが、働きさえすれば給料が入ってくる。

ずっと時給で働いているとその有難さが分からなくなるんですが、僕のように起業して何年も生きてると、その有難さが身に沁みます。

これって多分誰でも頭では分かると思うんだけど、あんまり実感はないと思うんです。

だから「もっと時給上がらないかなー」とか「時給安すぎだよなー」とか不平不満が出てくる。

上記の公案では弟子が「なんにも教えてくれないなぁ」という不平不満を抱いていたワケですが、師匠からすれば

「もとは見ず知らずだった血縁関係もない他人をこうやって寺で修業させて、しかも毎日あいさつもして、仕事を与え、お礼まで言ってるじゃないか」

ということになるワケです。

こんなのは言われりゃ誰でも分かるし、頭で分かっても何の意味もありません。

時給の有難さも、修行の有難さも、当たり前が当たり前じゃないと実感することで得られます。

この実感こそが悟りであり、僕らがパラダイムシフトやブレイクスルーと呼ぶものなのです。

 

公案(禅問答)の例2

ここで一人の禅僧の話をしよう。(中略)この僧は後に黄檗希運禅師として知られた人である

唐代の支那のことであるが、ある郡の知事が自分の所轄地方を見まわりに出かけた際、一軒の寺に立ち寄った。

その住職は知事を案内して寺の内部をあちこち見せて回った。

すると書院の壁に歴代の祖師方の肖像画がたくさんかけられてあるのに出合った。

知事はその中の一人の像を指して住職にたずねた。

 

知事
これは誰ですか
住職
先師でございます  

 

ところが知事の発した次の問いというのがちょっと面白い。

 

知事
ここに肖像はある。だがその人はどこにあるのですか?

 

この寺の住職はハタと当惑してしまった。どう答えてよいのかわからぬのである。しかし知事はどうしても答えよと言い張る。

和尚は彼に代わってなんとか答のできそうな者はおらぬものかと、心中ひそかに弟子たちの顔を一人ずつ思い浮かべてみたが、誰一人答えられそうな者も思い当たらぬ。和尚はまったく困り果ててしまった。

ところがふと和尚の頭に浮かんだ者がある。

それは行脚の雲水(※禅の修行僧のこと)で、最近この寺に投宿を乞うたまま逗留していて、たいていいつも庭掃除ばかりしている一風変わった雲水である。

禅僧らしく思われるこの雲水が、ひょっとしたらこの難問に答えてくれはせぬかと和尚は思った。

早速この雲水を呼んで知事に相見させた。

知事は礼拝して問う。

 

知事
ここにおられるお歴々はどうしたことか、私の質問に答えてくださる気配がこざいませぬが、ひとつ貴僧、私の問いにお答え願えませんでしょうか?
雲水
どんなことですか、それは  

 

知事はさきほどの事情を一部始終告げたあげく、

 

知事
ここにこの寺の先住職の肖像があります。しかし先住職の人格は今どこにあるのですか

 

雲水は間髪を入れず、

 

雲水
知事閣下  
知事
はい和尚

 

と応ずるや、雲水すかさず

 

雲水
彼はどこだ  

 

この僧の解決はこういうあざやかなものだった。

(引用元:鈴木大拙、エーリッヒ・フロム、リチャード・デマルティーノ著『禅と精神分析』 P55-57)

 

例2の解説

この公案は、いつでも問いが正しいと思うなよ、ということを僕らに教えてくれます。

僕らはこの話のように偉い人から「人格はどこか?」と聞かれた場合、それに真正面から答えないといけないと思い込んでいます。

学校教育でも、僕らは渡された問題集を解くことはあってもその問題集に疑問を持つことはありません。

「なんでこんな問題に答えなきゃいけないんだ?」と思うことがない。

しかし、ここで出てくる雲水(黄檗禅師)は知事の出した問いがおかしいということを「彼はどこか」と問うことで知らしめました。

先住職の人格がどこにあるか答えてほしければ、わたしの目の前に彼(先住職)を連れて来い、と。

そう言って、知事をやりこめたのです。

一休さんの話にも似たようなものがありますよね。

屏風に描かれた虎を捕まえろと言われた一休さんが一言「じゃあまず虎を屏風から出してもらえますか?」と言って終わったという話です。

黄檗禅師の話も一休さんの話も、出された問いの前提を見抜き、そこを突くことで相手にひと泡吹かせています。

この「前提」が僕らパラダイムであり殻であり思い込みだということは言うまでもないでしょう。

自分の殻を破れない人には、師匠からの問いに答えることができないのです。

 

公案(禅問答)の例3

麻谷山の宝徹禅師が、あるとき扇を使っていた。

そこへある僧が来て問うた。

 

風の本質は変わらず、どこにも行きわたらないところはないのに、どうしてあなたは扇を使っておられるのですか
禅師
おまえは風の本質が変わらないことは知っているが、それが行きわたらないところはないという言葉の本当の意味を知らないようだ
それならば、それはどういうことですか

 

師は黙って扇をつかうばかりであった。

僧は深く感じて礼拝した。

(中村宗一訳『全訳 正法眼蔵 巻一』 P 6より引用)

 

例3の解説

物事の本質は変わらない、でも変わらないからと言って何もせずにその本質を実感できるワケではない。

この公案が伝えたいのはそのことです。

風の本質と同じように、水や土の本質も変わりません。

雨はどこにでも降るし、土もどこにでもあるワケですから、わざわざそれを触って感じる必要はないように思えます。

けれども、畑仕事をやったことがない人にはその本質が実感できないんですね。

僕は自分で小さな畑をやっているので分かりますが、雨が降ってくれたり(食物が育つ)土がそこにあるということ自体が凄く有難いことなんですよ。

葉っぱが枯れて落ちてくれることも、落ち葉を食べてくれる虫がいてくれることも有難い。

禅の修行の目的はすべてこういったことを実感することにあります。

公案に口ばかり達者な僧や小利口な人が登場するのは、僕らがそうだからです。

悟りを目指すなら頭ではなく実感として分かることを常に意識しておきましょう。

 

公案(禅問答)の例4

長沙景岑(ちょうさけいしん)和尚の法会において、役人をしている竺(ちく)というものが問うた。

 

みみずは斬れると二つに分かれて両方とも動きます。仏性はそのどちらにあるのでしょうか?

 

長沙が答えた。

 

長沙和尚
妄想してはならない
しかし、動くことをどう説明すればよいのですか
禅師
体が散り散りになっていないからだ

(中村宗一訳『全訳 正法眼蔵 巻一』 P 63-64より引用)

 

例4の解説

仏性とは禅の用語で本質や真理を意味する言葉です。

この公案が伝えているのは「YESかNOか」「AかBか」という捉え方をするなということです。

「一即多・多即一」という言葉があるように、何かを分けるということ自体が禅としては間違いになります。

一であることと多であることは同じであり、これは、ある物事を右から見たら一に見えて、左から見たら多に見えるということなのです。

切断されたミミズは一見すると多に見えますが、それは師に言わせればミミズが増えたのではなく僕らのミミズの見方(あり方)が変わっただけなんですね。

その意味でこの公案には「見えているものに惑わされるな」という意味も込められているのかもしれません。

たった数行のやり取りでこれだけ深いことを伝えてしまう。

公案というのはホントによくできてますよね。

 

公案(禅問答)の例5

あるとき、僧が(玄沙禅師に)尋ねた。

 

和尚さまのお言葉に、一切世界は一粒の明珠であると伺いましたが、修行者はそれをどのように参学したらよいのでしょうか
玄沙禅師
一切世界が一粒の明珠であることを会得してどうするのだ

 

玄沙は翌日、今度は逆にその僧に尋ねた。

 

玄沙禅師
一切世界が一粒の明珠であることをお前はどのように会得したか
一切世界が一粒の明珠であることを会得してどうするのですか

 

すると玄沙が言った。

 

玄沙禅師
そうすればおまえは、一切世界において自由自在であることが知ることができるのだ

(中村宗一訳『全訳 正法眼蔵 巻一』 P 131-132より引用)

 

例5の解説

明珠とは透明な曇りのない玉、もしくは優れた人物の喩えです。

ここで言われているのは一言で言えば世界(時間も空間も)は1つの物事に現れているということになるでしょうか。

例えば身近な人間関係の問題から戦争に至るまで、起こっていることは体の中も同じだったりします。

体の細胞同士の連携の崩れや抗体が病原体と闘うことで問題(病気や症状)が起こってくる。

渋滞が起こるのも砂漠化が起こるのも、一粒の珠、一個の石、一本の木ですべて説明がつきます。

そういう禅の世界観をこの公案は示しているワケです。

ちなみにこの世界観を西洋的に表現したのが『存在と時間』の著者として有名なマルティン・ハイデガーという哲学者です。

ご参考まで。

 

まとめ

しつこいようですが、禅の教えはすべて実感に基づいています。

言葉や頭で理解するのではなく、本人が体験として理解することが何よりも大事です。

公案はあくまで弟子(僧)がその体験ができる段階に達しているかどうかを見極めるテストに過ぎません。

歴史に残っている公案はどれも上手くいった(悟ることができた)ものだけであり、その裏には何億何兆もの悟れなかった例があります。

公案をやったからといって誰もが悟れるワケではないということです。

公案で悟ることができた人は、何年もの修行(もしくは過去の経験)で土台ができていた人だけです。

ですから、公案のことはそこそこに、僕らはその土台の方を地道に築いていきましょう。

それが悟りやパラダイムシフト、ブレイクスルーへの近道なのです。

ありがとうございました。

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『モットチャント』の管理人兼ライター。オウンドメディアプロデューサー。
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Comment (1)
  1. 川田祐子 より:

    考案の解説が、とても具体的でなるほどと腑に落ちて、楽しく読ませて頂きました。考案の主旨からすると、言葉で理屈をこねるよりも、実際の経験から、血肉になるまで身に沁みて実感し体現することが重要なのだとは思いますが、そういう世界へ興味を持つきっかけとして、素晴らしい記事と拝読致しました。ありがとうございました。

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