ワンランク上の自己啓発をあなたに。

禅の教えにまつわる3つの面白エピソードと6つの徳目

禅
スポンサーリンク

ども、杉野です。

禅のことが書かれているお寺のページって、言葉が難しくて何を言ってるのかよく分からない。

そう思うのは僕だけでしょうか?

どれだけいいことが書いてあっても、意味が分からないのでは台無しです。

そこでこの記事では禅の教えをもっと分かりやすく、そして面白く、お伝えしていこうと思います。

 

 

エピソード1

京都に妙心寺という有名な禅寺があります。

そこの法堂(はっとう)にある狩野探幽の描いた雲竜図は、300年以上も修復が行われていないにもかかわらず、非常に綺麗な状態で残っている日本の誇るべき絵画です。

この雲竜図には興味深いエピソード(禅の教え)があります。

 

ある大きな禅寺の和尚さんが法堂の天井に竜の絵がほしいと思った。そこで一人の高名な画家が招かれた。絵を描いてほしいと依頼されたその画家は快く承諾した。しかし彼の言うには、

 

探幽
もし竜というものが本当になるのならぜひ一度見たいものだ
和尚
あなたはまだ竜を一度も見たことがないとおっしゃるが、まあ、そんなに気になさるな。  
和尚
お前さんが自分で竜になりなさるがよろしい。化して竜となる。そしてお描きなさい。  
和尚
昔の人のまねはせんで、自分が竜となって自分の思うがままにお描きくだされ。  
探幽
どうしたら竜となれましょうか。
和尚
まず本堂の一室にどっしりと坐って、竜、竜と竜に思いを凝らしなされ。するといつか必ず「よしこれだ、これを描いてやろう」と感ずる時節が来る。  
和尚
これがお前さんが竜になったときだ。竜が自分で自分に形を与えよと命ずるのですわい。  

 

と答えた。

-画家は和尚の言葉通りにやった。そして幾月も幾月も一生懸命余念なく竜に思いを凝らしているうちに、ふと、無念無想のうちに竜の中に歴然と自分がいることが気がついた。

この竜が現在京都の妙心寺の法堂の天井に残っている絵なのである。

(引用元:鈴木大拙、エーリッヒ・フロム、リチャード・デマルティーノ著『禅と精神分析』 P28-29)

 

僕はこれを知ってすぐにこの雲竜図を見に行きました。

だって見たくなるでしょ、こんな話を聞いたら(笑)

僕はほとんど日本画には興味がないんですが、そんな僕が「世界中の人に絶対に見てもらいたい」と思う日本画はこの探幽の雲竜図だけです。

それぐらいおすすめの作品ですので、もし京都に来る機会があればぜひ見てみてください。

うおぉ!!( ゚Д゚)

ってなると思います(笑)

 

エピソード2

禅には公案(禅問答)の記事で話したように面白いエピソードがたくさんあるのですが、個人的に笑ったのが安泰寺(あんたいじ)で現在住職をされているドイツ人禅僧のネルケ無方さんのお話です。

 

(安泰寺にはじめて来たときに)最初に宮浦老子に聞かれたのは「君は何をしにこの安泰寺にきたのか」という問いでした。

 

ネルケさん
僕は仏教を学びにきました。坐禅を教えてもらいにきました。

 

と答えると、

 

老師
あほう、ここは学校じゃない。おまえが安泰寺をつくるんだ。  

 

と。とんでもないことを言われた。

自分が安泰寺をつくる。師匠も、そのまた師匠から言われた言葉かもしれませんが、それが師匠を中心とした安泰寺のスタンスだったんです。

(引用元:仏教企画通信42号 発行日平成28年1月11日)

 

これを読んだとき、僕は思わず笑ってしまったんですが、ネルケさんについては実はもう1つ面白い話があります。

 

エピソード3

 

いざここで出家得度して雲水として修行が始まると、一か月典座の見習いをしてから、典座登板に当たるわけです。

初日はうどんを作れたと言われましたが、ドイツにうどんはないからスパゲティのアルデンテのつもりで作ったら、硬過ぎて食えないと怒られた。

次の日は「じゃあ柔らかくしてやろうじゃないか」と思って30分ゆがいたら、お粥になってしまった。毎日先輩に料理のことで怒られたので、

 

ネルケさん
僕は何も料理の勉強をしに来たんじゃない、仏教の修行をしに来たんだ!

 

と言ってみた。横で聞いていた師匠は

 

老師
おまえなんかどうでもいい!  

 

と大声で怒った。この「おまえなんかどうでもいい!」という言葉もまた、私にとって大きな道しるべとなったんです。

(引用元:仏教企画通信42号 発行日平成28年1月11日)

 

「おまえなんかどうでもいい」って(笑)

でもこの言葉がまさに禅で言われる「己を虚しゅうする」ということなんです。

自分が修行するとか、自分が評価されるとか、自分が満たされるとか、そんなことはどうでもいい。

そう思えなければ、それは禅の教えを実行していることにはなりません。

もし本気で禅の修行をする予定があるなら、こういったことも頭の片隅に置いておくといいでしょう。

 

六波羅密

禅の教えには6つの守るべき徳目というのがあり、それを総称して六波羅密(ろくはらみつ)と言います。

これはいわば禅の成功哲学です。

今から紹介する6つはどれも当たり前のことばかりですが、これらを意識して生きていけば必ず人生は好転していきます。

ちょっとずつでも意識していってくださいね。

では解説していきましょう。

 

布施(ふせ)

布施とは、与えることです。

これは自己啓発や成功哲学でもお馴染みですね。

この「与える」には、金銭的・物質的なものも含まれますが、他にも知恵や思いやりや感謝など、そういった目に見えないものを与えることも含まれます。

布施で重要なのは、与えることそのものではなく与える動機です。

何かのために与えるのではなく、与えたいから与える、与えるために与える、というのが布施の土台になります。

僕らが恋人にサプライズをするのは、何かの見返りを求めてではなく、ただただ恋人にそうしたいからしてるだけですよね?

子供を育てるのだって、普通は育てたいから育ててるだけだと思います。

つまり

大切な人が増えるほど僕らは自然と布施ができるようになる

ということです。

布施を実践する近道は、自分にとって大切な人や好きな人を増やすことです。

他人の足りないところやダメなところではなく、優れているところや魅力的なところを見つける。

それが人を好きになり、しいては布施を行うためのファーストステップです。

 

持戒(じかい)

持戒とは、戒律や規律を守ることです。

ここで言う戒律や規律というのは道徳的・倫理的規律を指します。

例えばリッツカールトンホテルには「クレド」と呼ばれる従業員の行動指針となるものがあります。

そのクレドがリッツカールトンの道徳規範であり、従業員はそれに従うことでリッツカールトンに相応しい、ある意味でリッツカールトン教の僧侶として己を磨いていくことができるワケです。

禅寺にもそれぞれこのクレドのようなものが存在し、それを守ることで在るべき禅僧として生きていくことができます。

簡単に言えば、ちゃんと自分のルールを守る、というのが持戒の意味です。

 

忍辱(にんじょく)

忍辱とは、耐え忍ぶことです。

これは単なる我慢ではなく、物事をあるがままに捉えることで苦痛を苦痛だと思わないようにする修行を意味します。

悪口や批判や辱めというのは多くの人にとって苦痛なワケですが、それらは客観的に見ればただの事実でしかありません。

そんなものに感情を揺さぶられていては、到底悟りに達することなどできません。

何を言われても、どんなことをされても、あくまで客観的な視点で心を乱すことなく耐え抜くこと。

これが単に我慢することとは違う、忍辱の意味なのです。

 

1-4.精進(しょうじん)

精進とは、精一杯やること、がんばること、手を抜かないこと、全力を出すことです。

こう言うと「なんだ、それだけか」と思うかもしれませんが、これを続けることがいかに難しいかは誰もが知っているはずです。

精進するためには、少なくとも忍辱ができていなければなりません

なぜなら些細なことで感情が揺さ振られていたら、明らかにパフォーマンスが下がる(集中力が途切れる)からです。

ブログを書くときでも、批判に怯えながら書くのと、そんなことを気にせず書くのとではまったく作業効率は変わってきます。

逆に言うと、忍辱さえできていれば精進は自然と行えるようになるとも言えるワケで、その意味で忍辱と精進(と次の禅定)はセットで考えるべきものです。

がんばるためには、がんばる土台が必要なのです

 

1-5.禅定(ぜんじょう)

禅定とは、いかなる状況においても冷静であることです。

少し意味は違いますが、忍辱とも似ています。

というより、禅定は忍辱を含むものだと言っていいでしょう

冷静さを失えば、上手くいくはずだったものも上手くいかなくなってしまいます。

モテない男性にありがちなのは、相手の女性からメールがなかなか返ってこないときに冷静さを失って「なんか怒ってる?」とか「忙しい?」とか送っちゃうこと。

じっと待っていれば上手くいったかもしれない恋も、冷静さを失えばパーになります。

禅においてもそれは同じで、冷静さを失ってしまうと師匠の言葉を素直に聞き入れられなくなったり、公案を考えられなくなったりすることもあるでしょう。

そうなってしまってはどうしようもありません。

禅宗のサイトを見ていても、禅定という言葉はよく出てきます。

禅定とは、それぐらい基本的なことであり、これ無しには悟りがあり得ないものなのです。

 

1-6.智恵(ちえ)

鈴木大拙曰く、智恵(般若)とは

 

われわれ人間のもつ個別的な特殊な経験をすべて超越するような何ものかを当体的に直観する

(引用元:鈴木大拙、エーリッヒ・フロム、リチャード・デマルティーノ著『禅と精神分析』 P133)

 

平たく言えば閃きや衝撃、ブレイクスルー、パラダイムシフトなどのことですね

生きていれば誰しも「どうして今までこんなことに気付かなかっただろ」と思うことがあると思います。

例えばマルセル・デュシャンの「泉」という作品は普通に見ればただの便器ですが、「こんな工業製品だって現代においては立派な芸術じゃないか」と彼が思った(悟った)ことで生まれた作品です。

誰もが見慣れている便器も1つの芸術作品だと気付いたこと。

これが智恵です。

身近な例だと、ずっと自分は不幸だと思っていたけど、あるキッカケで実は幸せだったと気付いて感謝の気持ちが溢れ出てきた、みたいなのも智恵に含まれます。

これらの智恵は頭の中にあるものをこねくり回したところで出てくるものではありません

そこには必ず衝撃的な体験があり、その体験は理屈では説明のつかないものです。

禅が求めているのは「それ」であり、「それ」が自分にとってありふれた常識となることを「悟りの境地へ至る」と言うワケです。

 

まとめ

ここまでいろんな話をしてきましたが、結局のところ禅は体験してナンボです。

坐禅や公案も禅にとって大切なものではありますが、そこに実存、つまり生きている実感が伴わなければ何の意味もありません。

 

生きること=禅

 

それが本来の禅だということを忘れないでくださいね。

ありがとうございました。

スポンサーリンク
by

『モットチャント』の管理人兼ライター。オウンドメディアプロデューサー。

SNSでフォローする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です