ども、杉野です。
20世紀最大の宗教学者と言っても過言ではないミルチャ・エリアーデという人がいます。
彼はヘブライ語やサンスクリット語などの難解言語を含む8つの言語を母国語のように扱えた超人として有名です。
エリアーデは生前、『聖と俗』という有名な本を書きました。
この本の内容は非常に興味深いもので、今の時代だからこそ学んでおくべきことも多いのですが、今回は敢えてそこには触れず、タイトルになっている「聖」と「俗」という言葉の意味にしぼって解説をしていこうと思います。
これはスピリチュアルの世界とも密接に繋がる話なので、そっち方面に興味がある場合も読んでみてください。
きっと勉強になるはずです。
日本人なら誰しも、一度はどこかの神社へ行ったことがあると思います。
そのときのことをちょっと思い出してください。
神社に入ったときに、何か特別な感じがしませんでしたか?
それは言葉にできないかもしれませんが、神社の中と外とでは何かが違うと感じたはずです。
都会のビルやデパートに入っても何も感じないのに、神社の敷地内に入ると何か心が透き通るような、空気が澄んだような、もしくは畏敬の念が湧いてくるような、そんな感じがすると思います。
これは神社と神社以外では何かが違うということです。
僕ら現代人はこの感覚を軽視していて、人によっては「気のせい」で済ませてしまうのですが、この言葉にできない、神社の中にいるときに感じるものを「聖なるもの」と言い、それ以外の空間にいるときに感じるもの(特に何も感じないもの)を「俗なるもの」と言います。
ただ、ここでは神聖なものを「聖なるもの」と呼んでいるワケではありません。
この例だけだとそういうを誤解してしまうと思うので、他の例も紹介します。
会社というものに対して聖と俗のどちらを感じるかというと、普通の感覚では俗だと思います。
しかし、エリアーデはそういう意味で聖と俗という言葉を使っているのではありません。
例えばあなたが会社のことが嫌いで、仕事を嫌々やっていたとしましょう。
このとき、あなたは時間の流れを非常に遅く感じるはずです。
「まだ1時間しか経ってないのか・・・早く仕事終わらないかなー」と、そんなことを思いながら仕事をしているかもしれません。
ここで感じているものも実は「聖なるもの」です。
正確には「聖なる時間」と言って、時計が刻む客観的な時間ではなく、特別に遅く感じる、もしくは早く感じる主観的な時間です。
ゲームに熱中したり、大好きな恋人とデートをしているときには、誰もが早く時間が過ぎると感じるはずですが、そういうものもすべて「聖なる時間」に含まれます。
会社で働いているときに感じる時間の早さと、時計をじーっと見ているときに感じる時間の早さは違いますよね?
それは会社があなたにとって「聖なるもの」だということです。
「聖なるもの」は、自分にとって気持ちいいか否か、神聖で清らかな感じがするか否かは何も関係ありません。
エリアーデの言う「聖」とは「他とは違う何かを感じるものすべて」であり、「俗」とは「他と何ら区別のない(何も感じない)ものすべて」なのです。
僕らにとって自宅は宗教的に特別な意味を持っています。
会社や旅行先から自宅に帰ったときにホッとするのはなぜでしょうか?
なぜ会社や旅行先ではホッとできないのでしょう?
ここに「聖なるもの」を見てとることができます。
つまり自宅は、他の空間や場所とは明らかに何かが違っているのです。
僕らは自宅を基点として日々の活動を行います。
遊びに行っても働きに行っても買い物に行っても、自宅がある人は最終的に必ず自宅に帰ってきますよね?
もしこの「帰るべき場所」がなかったとしたら・・・というのを考えてみてください。
凄く不安じゃないですか?
なぜそんなに不安になるのかというと、土台がなくなるからです。
神社や会社とは違い、自宅は僕らの出発点であり終着点です。
これがないということは出発することも帰ってくることもできないということですから、どこへも行けないということになります。
いや、どこへも行く意味がない、と言った方が正しいかもしれません。
自宅がなくなると「出掛ける」という概念や「出社」や「旅行」という概念がなくなり、働くことと休むこと、遊ぶことと休むことの区別もなくなって、すべてがのっぺりした感じになります。
帰る場所があるからこそ「行く」という概念が意味を持つワケで、そもそもの帰る場所がなければ行く行かないの意味はありません。
すなわち、自宅という帰るべき場所はどこかへ行く(何かを始める)ために無くてはならないものであり、その意味で他の「聖なるもの」とは明確に区別されるものなのです。
聖と俗が存在することで僕らは人生にメリハリをつけることができます。
恋人といる時間とそうでない時間、お気に入りの場所とそうでない場所など、そういったものが僕らの人生を彩ると言ってもいいでしょう。
四六時中ずっと恋人と一緒にいたとしたら、その時間はもはや特別ではなくなり、やがてマンネリします。
昔の歌に「会えない時間が愛育てるのさ」という歌詞があったような気がしますが、やっぱり「俗なるもの」があるからこそ「聖なるもの」が際立つワケです。
自宅もそう。
自宅(聖なるもの)があるからこそ他の場所(俗なるもの)が意味を持つし、わざわざ高いお金を払って旅行へ行く意味が生まれてくるのです。
スピリチュアルの世界は「聖なるもの」に属すると思うかもしれませんが、それは間違いです。
スピリチュアル的な能力を発揮するには、聖と俗の両方のバランスを取らなければなりません。
なぜなら、スピリチュアルとは現実を踏まえた先にあるものであり、本物のスピリチュアリストほど現実性を重視しているからです。
現実性とは、聖と俗のバランスが取れている度合いに他なりません。
「聖なるもの」だけでは巷によくあるふわふわした地に足のついていない「なんちゃってスピリチュアル」になるし、「俗なるもの」だけでは人間らしさのない機械のような人になります。
僕らが現実を、そして現実以上のものを生きるには、聖と俗の両方に足を突っ込んでおく必要があるのです。
僕らの身の回りには聖と俗があふれています。
ユーチューブやニコニコ動画に聖なるものを感じる人もいれば、AKB48やももクロに聖なるものを感じる人もいるでしょう。
ただ、いくらそれが聖なるものだからといって、それに傾倒し過ぎると人生のバランスは崩れます。
聖なるものを聖なるものとして際立たせるためには、俗なるものが必要です。
好きなものに没頭するのもいいですが、ちゃんと俗なるものとのバランスもとってくださいね。
ありがとうございました。