先日、肌色という色がなくなったという話を聞きました。
なくなった理由は、肌の色が差別につながるから、だそう。
今は「うすだいだい色」とかなんとか呼ばれているそうで、思わず
分かりにくいわ!
と一人ツッコミを入れたワケですが、この手の話って僕らをなめてるとしか思えないんですよね。
何がなめてるかって、色の名前を変えただけで僕らの認識や行動が変わると思ってるところが、です。
それ以前に、僕らに善悪を判断する能力やそれを取捨選択する能力がないという前提で話が進んでいる点がすんごく気になる。
肌色という言葉を使うか否かは倫理観や価値観、目的、その場の文脈に照らして当事者が自分で判断すればいいんであって、それは本来どこかの偉い人が勝手に決めるようなことではありません。
僕らはこういうところにちゃんと反応して
ちゃんとムカついた方がいい
と思うのです。
間違ったもの(や人)をこの世から無くすという行為・思想は、人類が歴史的かつ日常的に犯してきた典型的な悪の1つだと僕は思っています。
ガンダムSEEDやDr.Stone、下町ロケット、中世の魔女狩りからナチスの全体主義やイラク戦争、昨今のコンプライアンス重視の考え方など、それはいたるところに溢れています。
そして僕らも日々間違ったものにイライラし、間違ったものを排除したい欲求に駆られて生きている。
レジで小銭を出すのにもたもたしている老人にイライラしたことがあるのはきっと僕だけではないでしょうし、うるさい親戚なんて死ねばいいのにと思ったことがあるのも僕だけではないでしょう。
でもこれが普通だと思うんです。
僕は差別意識もありますし、ぶっちゃけ多様性がどうこうという話もキレイ事だと思ってます。
人類が何千年かかって解決できなかったことを今さらどうにかできるはずがない(ご先祖様を侮りすぎ)、というのが僕の考えです。
だから差別なんてなくならない前提で、多様性を認める社会なんてやってこない前提で僕は物事を考えた方がいいと思っています。
「差別するな!」ではなく「どうしても差別しちゃうよねー、じゃあどうしよっか?」
これが僕が言いたいちゃんと間違う権利です。
人は必ず間違います。
だからこそ、それを踏まえた上でどうするか考える。
現実的に考えるってこういうことなんじゃないかと僕は思うんです。
僕らは必ず間違うと同時に、必ず失敗します。
そしてそこからなんとか成功しようともがき苦しみします。
しかし上記の話を踏まえるならば、僕らにとって成功すること以上に重要なのは
失敗しても大丈夫だと思える環境をいかに作っておくか
なんじゃないかと思うんです。
成功に対して失敗する数や確率は圧倒的に高いワケですから、成功する方法なんかよりも、安心して失敗できるセーフティーネットを持っておく方が何十倍も重要だと思いませんか?
たとえ差別を受けたとしても「そんなの気にしなくていいんだよ、君は僕らにとってはとても大切な存在なんだから」と言ってくれる仲間がたくさんいれば、僕らはそれだけで幸せに生きていけるんじゃないでしょうか?
僕は今話したようなセーフティーネットになってくれるようなコミュニティを作っていきたいと考えています。
まだ構想段階なのでまったく形にはなっていませんが、切磋琢磨できる仲間っていうよりどっちかというと僕はそういうのが作りたいんですよね。
保険みたいなもので、やっぱり安心じゃないですか、その方が。
なんなら(できるかどうかはともかく)コミュニティ内における独自保険も作りたいと思ってるぐらいです。
最近はそういう夢が広がってきているので、細かいことはまた追々発信していければと思います。
よかったら気にしててください。
ではではー。