いつもの今日に革命を

視点を変えるとは命を吹き込むことである/クリスチャン・ボルタンスキー展

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先日、東京(乃木坂)の新国立美術館で行われているクリスチャン・ボルタンスキー展に行ってきました。

これはあくまで僕の見方ですが、彼は現代版フランシス・ベーコンです。

この表現を一般語に翻訳すると

  • 作品は超一流
  • 感覚や感情に強烈に訴えかけてくる
  • でも家には絶対飾りたくない
  • キモイ

となります。

家にあったら間違いなく投げ捨てます、はい、躊躇なく。

僕が心から「すげぇー!」と思う作品は、大体いつもキモかったり家に飾りたくないものだったりするんですよね。

マーク・ロスコの抽象画も、フランシス・ベーコンの三副対も、もの派のガラクタたちも全然ほしくない。

にもかかわらず「すげぇー!」と思うんです。

このギャップに僕はいつも胸キュンしてしまうワケですが、ボルタンスキー展で僕が感じたその胸キュンを今から全力でお伝えしたいと思います。

 

咳をする男、もとい、ゲロッパ

僕が今回もっとも投げ捨てたくなった胸キュンしたのが展覧会に入ってすぐの映像作品ゲロッパ。

この映像はなんと、男性がずっと酷い咳をしながら血を吐いているところが映っているだけ。

チョー不快。

でもそれがこの作品の役割じゃないかと僕は思っています。

僕らは普段あんまり意識しないですが、咳って見る人や聞く人の感情を揺らすんです。

それはマスクをしていても同じで、咳の音が聞こえるだけ感情が揺れるし、感情が揺れるたびに僕らは平常心に戻すためのエネルギーを消費する(ホメオスタシス)。

展覧会の最初のエリアではこの作品の音声が壁越しに聞こえてくるので、そのエリアにいる間は不快で仕方ないワケです。

でもこれがアートだと僕は思っています。

偉大なアートは、人間の置かれている状況がいかに脆いかを思い出させてくれる。

フランシス・ベーコン

とベーコンが言っているように、たった一人の男が咳を続けているだけでこんなにも周りはメンタルを削られてしまう。

どんだけ僕らは脆いんだ、って話です。

 

不快なものへの態度

ネットでもテレビでも最近は不快な映像がことごとく削除されていますが、それによって僕らのメンタルはどんどん弱くなっている気がしています。

不快だから見ない。それは簡単なことです。他人の苦しむところなんて誰も見たくはないでしょう。

けれども僕は、その不快を直視する強さが必要だとボルタンスキーは語っているように思えるんですよね。

目の前で苦しんでいる人すら助けられない自分の弱さ。助けるどころか感情が揺さぶられてしまうだけの自分の脆さ。

そういったものと向き合ったときに、僕らは初めて強くなれるんじゃないか、と。

あくまで僕の解釈ですが、彼はそう言いたかったんじゃないかなー。

 

黄金の海

咳をする男と同じぐらい僕にインスピレーションを与えてくれた作品が『黄金の海』です。

この作品は金色の防寒シート(?)みたいなのがデコボコに敷いてあって、そのシートの上を揺れている電球が照らしています。

ただそれだけの作品なんですが、この照らされたシートをじーっと見ていて思ったんです。

なんか動いてるように見えるぞ、と。

シートは動いてないのに、照らされる側面が変わるだけで動いているように見える。

ここで僕にコペルニクス的転回が起こりました。

もしかして「動く」って、そのもの自体じゃなくて、周りの環境が移り変わっていくことなんじゃないだろうか。

だとすれば、視点を変えることは対象に命を吹き込むことなんじゃないか。

そう思ったワケです。

 

アートの中のアフォーダンス

デザイン業界では有名なアフォーダンスという言葉があります。

詳しいことは上記を参照してほしいんですが、アフォーダンスとは要はコンテンツ(対象)とコンテクスト(文脈)の関係によって意味や価値が決まる、という考え方のことです。

この作品におけるコンテンツは防寒シート(違)で、揺れている照明はコンテクストです。

コンテクストは常に動いていて、コンテンツのいろんな側面を照らし出しています。

この状態が実は自然というか、生きてるって本来こういう状態だと思うんです。

僕らは「木が生長する」みたいに捉えているけれども、現実にそこで起こっているのは木以外のものが移り変わっている、コンテクストが木の生長を定義づけているということです。

それは季節かもしれないし、風景かもしれないし、土の状態かもしれない。

いずれにしてもそういったコンテクストの移り変わりが木が生きていること、生長していることの証になっている

『黄金の海』を見て僕はそんな風に思ったんですよね。

ここから導かれる哲学的問いは、生きるとは何かではなく

生きるとは何でないか

です。

生きていると言えないものを明確にすることで生を浮き彫りにする。

そう考えると答えとは分かるものではなく、常に新たな問いを生み出す源泉でなければならない気がするんですよね。

ボルタンスキー自身が語っているように本来のアートとは問題提起であり、そういうものなんじゃないかと思います。

 

まとめ・所感

今回の展覧会全体を通して僕が感じたのは

美術館という文脈がなかったらここにある作品は単なるガラクタだよな

ってことです。

アウトサイダーアートの展覧会を見た時も思いましたが、その単なるガラクタに意味を与えるのはそれをアートだと感じた人であり、アートだと認めた学芸員やコレクターや美術館なんです。

だから本質的なことを言うと、

アートは美術館に飾られた時点でその価値の半分以上を失っています

ただ価値は失っているけども多分役割は失っていない。

時計の価値がゼロ円になっても、時計は時計として使えます。

同様に美術館にあるアートも、アートの本質的な価値は失っているけど役には立つ。

そんな風に作品を見て頂くと、今までとは違った新しい発見があるかもしれません。

気が向いたらぜひ。

ありがとうございました。

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管理人プロフィール

杉野裕実(すぎのまさみ)
チームビルディング(組織開発)コンサルティングを行う会社のWEB担当。個人ではコーチングをしたり小説を書いたりしてます。最近Udemyで哲学講師はじめました。【好き】西洋哲学・アート・認知科学・マンガ・料理・ファッション。

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