答えがない時代。
僕はこの言葉が嫌いです。
「答えが無限にある」とか「誰でも答えを出せる」って言えばいいのに、なんで「答えがない」って言っちゃうんですかね?
まるでこれまでの時代の方がよかったと言わんばかり。
答えがひとつじゃないからなんだと言うのでしょうか?
答えがひとつだったら簡単に幸せになれたとでも?
ここ10日間ほど第58回宣伝会議賞のキャッチコピーを考えていて、ふと、そんな嫁姑問題並みのイライラが湧いてきました。
キャッチコピーには無限の答えがあります。
最終的に優劣がつけられグランプリが決まるワケですが、別にグランプリだけが素晴らしいワケじゃない。
でも自分で何百個もアイデアを書き出していて分かったことがあります。
僕の中には答えを答えたらしめる基準が確かに存在するということです。
正解が何なのかは分からないけれども、何百個ものアイデアのほとんどが正解たるに満たない(正解に相応しくない)ことは感覚で分かるんですね。
それが分かるがゆえに、より正解に近いコピーを書こうと思えるし、だんだん自分のコピーが正解に近づいているのも実感できる。
こういう感覚や基準って、答えが無限にある時代には凄く重要だと思うのです。
僕らは自分が好きなものに対して何らかの基準を持っています。
あなたが映画好きだったとしたら「Aって映画も確かに面白いけどBには到底およばない」と思うことが1日56回はあるはずです。僕はないけど。
じゃあなんであなたはAよりBの方が面白いと思うんでしょうか?AにはなくてBにあるものは何なのでしょう?そもそもあなたにとって面白いってなんですか?
僕らの中の基準って、こういう問いかけを続けることで確立していくんですね。
ここがちゃんと確立してないと、僕らが出した「面白い」という答えはその他大勢の「面白い」に埋もれてしまいます。
例えばあなたが『鬼滅の刃』を面白いと思ったとしても、なぜそう思ったのか、どこでそう思ったのか、そう思ったことで何を得たのか、どういう見方をすると面白いのか・・・といった独自の何か(あなたらしさ)がなかったら、あなたの感想をわざわざ聞く意味がないワケです。
「鬼滅の刃おもしろいよ」なんてみんな言ってるワケですから。
もちろん友達に話すだけならそんなことは気にしなくていいですが、自分の軸を作って自分らしく生きていきたいとか、共感してくれる仲間を集めたいと考えているなら、ここは外せないと思います。
つまり、僕らは答えの質を問われているのです。
自分らしく生きるとは、自分なりの答えを持って生きることだと僕は思っています。
自分なりの答えを作るのは背景です。
僕らが何かを面白いと思えるのは、そう判断(解釈)しうる基準をこれまでの経験で獲得してきたからです。
だとすれば、その背景にこそ「らしさ」のヒントがあります。
自分はどういうものに面白さを感じるのか。
そこには必ず共通する何かがある。
何年かかってもいいので絶対に見つけてください。
それが一生使える答えになるのです。