いつもの今日に革命を

脱近代のメタコミュニケーション

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最近、落合陽一氏の記事をよく読んでいます。

僕は彼の脱近代というコンセプトに共感していて、自分が目指したいのもそこだと思っているんですが、

先日Newsweekのインタビュー記事を読んでいて、あることに気付きました。

それは

脱近代を唱える落合氏の記事が、それと逆行して読者の近代化を強化するような書かれ方をしていた

ということです。

 

脱近代が脱近代を妨げる

落合氏の記事に限らず、ある種の成功者のインタビューは読者の劣等感(近代的価値観)を強化するように作用します

例えば落合氏のインタビューでは「周りの評価を気にしないのが大事」という話が出てきます。

僕もそれ自体は正しいと思うんですが、僕らがそれを読んで感じるのは

それができていない(周りの評価を気にしてしまう)自分に対する劣等感

なんですよね。

そうやって脱近代できていない僕らは自然と落合氏(他人)と自分を比べちゃうし、それによってより脱近代しにくくなっていきます

だとすると、

脱近代してない僕らのような凡人に対して、ストレートに脱近代を説くことは逆効果じゃないかと思うわけです。

 

正しいことを言うことは必ずしも正しくはない

僕は落合陽一氏をディスっているワケではありません。

むしろ僕は彼を尊敬してますし、応援もしています。

ただ彼のような目立つ人間を「成功者」として取り上げ、読者への影響を顧みずに

さも誰もが目指すべき存在であるかのように喧伝すること

に問題があるのではないかと言っているワケです。

 

学びうることと学ぶべきこと

僕らが「成功者」から学べることはたくさんあります。

「成功者」の事例を紹介すること自体はいいことだと思いますし、インタビューも基本的には有用なものだと思います。

でもそれらの情報はもはや

「学びうること」であって「学ぶべきこと」ではない

ということを書き手は注意深く伝える必要があるんじゃないでしょうか。

 

脱近代から脱近代する

凄い人のインタビューは凡人の凡庸さを際立たせます。

光が増せば影が濃くなるように、凄い人に脚光を浴びせればその影である僕らの肩身は狭くなっていく。

それは筆者や編集者の意図ではないかもしれません。

でも凄い人をインタビューするという行為そのものが

インタビューされてないヤツは劣っている

というメタメッセージを伝えているワケです。

そして脱近代できていない僕らはそのメタメッセージをそのまま受け取り、

自分も凄い人のようになる「べき」だと思ってしまう。

この構造にメスを入れることが脱近代・・・ではありません。

そうではなく、「凄い人」や「インタビューされること」、「成功者」の定義を書き換えることが脱近代なのです。

 

凄い人は凄い人ではない

この禅問答のような言葉に僕は近代から脱するヒントがあると思っています。

成功者は成功者じゃないし、挫折は挫折じゃない。

そして答えは答えじゃない。

あわてない、あわてない、ひとやすみ、ひとやすみ。

ありがとうございました。

管理人プロフィール

杉野裕実(すぎのまさみ)
チームビルディング(組織開発)コンサルティングを行う会社のWEB担当。個人ではコーチングをしたり小説を書いたりしてます。【好き】西洋哲学・アート・認知科学・マンガ・料理・ファッション。

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