いつもの今日に「はじめまして」

「なぜ人を殺してはいけないのか」に哲学的に答えよう

食べちゃダメなのか
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ども、杉野です。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、誰もが一度は考えたことがあると思います。

殺しちゃいけないのは誰でも知ってるけれども、改めて「なんで?」と聞かれると困りますよね。

もし自分の子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか?

悲しむ人がいるから、自分が殺されたくないから、法律で決まってるからなどなど、ネット上には参考になる回答がたくさんありますが、

実はそのどれもがこの質問に答えていません

みんなそれに気付いていないから、誰もが納得する答えを出せないのです。

ちょっと考えてみてください。

悲しむ人がいなければ人を殺してもいいのでしょうか?

自分が殺されてもいいと思っている場合は人を殺してもいいのでしょうか?

法律なんてどうでもいいと思っている場合は人を殺してもいいのでしょうか?

ネット上の意見は、こういった反論に答えることができません。

それは結局、みんな「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えていないからなのです。

そこで今回は、ネット上の様々な意見を取り上げて不完全な部分をあばき、そこからなぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えられないのか、どうすれば答えられるのか、という解説をしていきます。

自分の子供にはどう答えてあげればいいのかも紹介しますので、よかったら参考にしてみてください。

 

1.「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対する回答例

ネット上に散らばっている意見を一覧にまとめると、ざっと以下のようになります。

  1. 誰もが殺されたくないと思うから
  2. 人権侵害だから
  3. 相手の希望や未来を奪うことになるから
  4. 神が作ったものは尊重されなければならないから
  5. 人を殺してはいけないという法律があるから
  6. 取り返しがつかないから
  7. 僕らは既に殺してはいけないことを知っているから
  8. 殺された人の家族や友人が悲しむから
  9. 社会が殺してはいけないと要請するから
  10. 「死にたくない、生きたい」という本能が備わっているから
  11. 生産性が失われるから
  12. 人殺しは悪だから
  13. 社会からハブられるから
  14. 人のものは奪ってはいけないから
  15. 遺伝子の多様性が失われるから
  16. 人類が滅びるから

ぶっちゃけ、世間のことをよく知らない子供をごまかすだけなら上記の回答で十分だと思います。

僕も人を殺すのは問答無用でダメだと思いますし、「自分が殺されたら嫌だろ?」とか「パパやママが殺されたら悲しいだろ?」とか、それだけで大抵の子供は納得するでしょう。

でも僕らが生きる現実には例外があります。死刑や戦争です。

人を殺すことを禁じている法律が、人を殺すことを正当化している死刑。

人を殺してはいけないと教えている大人が、人を殺しに行く戦争。

人を殺してはいけないのなら、なぜ戦争や死刑は許されるのか。

これを「それは例外だから」とか「仕方ないから」と言うのは逃げだと思うのです。

だって人を殺しちゃいけないというのは、「絶対に」殺しちゃいけない、って意味なんだから

だとすれば、この死刑や戦争という矛盾を解消することは、僕ら大人に課せられた責任なんじゃないでしょうか。

 

2.「なぜ人を殺してはいけないのか」にみんな答えてない?

死刑や戦争を持ち出せば、上記のすべての回答が不完全だということは分かると思います。

じゃあなぜ不完全になるのか。

それは、彼らが答えているのが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いではなく、

 

なぜ「私は」人を殺してはいけないと思うのか

 

という問いだからです。

この違い、分かるでしょうか?

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは抽象的な答えを求めているのに対して、「なぜ私は人を殺してはいけないと思うのか」はその人の主観的かつ具体的な答えを求めています。

つまり多くの人は前者の問いを(無自覚に)避けて、共感ベースとなる後者の問いに(無自覚に)すり替えているのです。

 

3.「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えられない理由

僕らが「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えず、「なぜ私は人を殺してはいけないと思うのか」という問いに答えてしまうのは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という「抽象的な」問い自体が意味をなさないからです

 

例えば

  • なぜ江頭2:50を殺してはいけないのか
  • なぜ自分の母親を殺してはいけないのか
  • なぜ日本では脳死の人を殺してはいけないのか
  • なぜ私は大量殺人鬼を殺してはいけないと思うのか

など、具体的な人や文脈を設定すれば、僕らは何らかの答えを出すことができます。

江頭2:50が暴走しすぎて殺人を犯してしまった場合、「あんな奴は殺してしまえ」と思う人がいるかもしれません。

この例は冗談ですが、こういう具体的な人と文脈が決まれば僕らは判断できるんです。

でも、もしこれが「ある人があることをした場合に殺してもいいと思うか?」って聞かれたら分かんないでしょ?

ある人って誰だよ!あることって何だよ!

そう思うはずです。

でもそれが「なぜ人を殺してはいけないのか」が僕らに問いかけていることなんですよ。

だから僕らは「ある人」を「自分たちのような人」に、「あることをした」を「法律に従って生きている」という風に勝手に文脈を設定し、抽象的な問いを具体的な問い(私はどう思うか)にすり替えます。

それによって僕らは不完全な問いを完全なものにして答えているのです

 

4.「なぜ人を殺してはいけないのか」に答える方法

以上のことから、「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えるための2つの問いを導くことができます。それは

  1. 私は誰を殺してはいけないと思うのか、それはなぜか
  2. 私はどういう場合に殺してはいけないと思うのか、それはなぜか

の2つです。

この2つに答えることが、「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えることになります。

1の問いを考えれば、私は母親は殺してはいけないと思うけど大量殺人鬼は死刑になって(殺されて)当然だと思う、という答えが出るかもしれません。

もちろん大量殺人鬼であっても殺してはいけないと思う人もいるでしょうし、誰であれ殺してしまえばいいと思う人もいるでしょう。

そう思う理由は人による、もっと言えばそのときの感情なども影響するので、一概に決まった答えはありません。

説得力を持たせるために人権の話や感情論や倫理観などの理屈をこじつけることは可能ですが、究極的にはその人がどう思うかに委ねられます。

殺しちゃいけないと分かっててもブチキレて殺してしまうことはあるし、自分の大切な人を殺されれば多くの人は犯人の死刑を望むでしょう。

どれだけ善良な人であっても、どれだけ理屈を並べても、場合によっては殺してもいいと思ってしまう

これが現実なのです。

 

5.子供にはどう答えればいいのか

じゃあ「なんで人を殺しちゃいけないの?」と子供に聞かれたらどう答えたらいいのか。

そこが一番の悩みだと思いますが、ここはハンナ・アレントという政治哲学者がナチス研究で見つけた1つの答えがヒントになると思います。

道徳が崩壊したナチス政権時代において、多くの善良な市民がユダヤ人の大量殺人に手を貸した一方で、そうならなかった極一部の市民たちがいました。

その市民たちになぜ手を貸さなかったのかをアレントが尋ねたところ、彼らはこう考えていたそうです。

 

「わたしにはこんなことはできない」

(引用元:ハンナ・アレント著『責任と判断』 P96より)

 

 

つまり彼らは、殺してはいけない理由や根拠なんて関係なく「自分には殺すことなんてできない」と考えていたということです。

僕も似たような経験があります。僕の場合は殺すじゃなくて「殴る」です。

小学生のときに友達と喧嘩して、背中やお腹や頭を殴ることは何度もあったんですが、どうしても顔だけは殴れなかったんです。

凄く感情的になって理性なんてぶっ飛んでるはずなのに、なぜか顔だけは殴るのをずっと避けてました。

多分「できない」というのはこういう感覚です。

感情の奥深くにある何かが作用して、一線を越えることができない。

そういう人間になりなさい、と子供に伝えることが親の役目だと思います。

要は、子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と質問されたら、

 

「それは場合による、けど、あなたはどんな場合でも人を殺せない、そんなことができない優しい人間になりなさい」

 

と伝えればいいんです。

善いか悪いかではなく「できない」。

これが現段階で僕が一番納得のいく答えです。

 

6.まとめ

なぜ人を殺してはいけないのか、という抽象的な問いに答えはありません(僕らは答えることができません)。

僕らが答えられるのは

  1. 私は誰を殺してはいけないと思うのか、それはなぜか
  2. 私はどういう場合に殺してはいけないと思うのか、それはなぜか

という2つの問いだけです。

しかしより重要なのは、この問いに答えることではなく、この問いの答えが仮に分からなかったとしても「殺すことができない」という自分を作り上げることです。

大事なのは問いでも根拠でもありません。

大事なのはいかに善く生きるかです。

そのことを忘れなければ、僕らもあなたの子供も、道を踏み外すことはないでしょう。人を殺すような人間にならないでくださいね。

ありがとうございました。

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7.参考

参考として、先ほどのアレントの著書の引用箇所を長めに載せておきます。非常に大事な話をしているので、読んでみてください。

 

道徳が崩壊したナチス時代のドイツにも、ごく少数ではありますが、まったく健全で、あらゆる種類の道徳的な罪をまぬがれていた人々がいました。こうした人々は、大きな道徳的な矛盾や良心の危機のようなものをまったく経験していません。「より小さい悪」とは何かとか、国や地下に対する忠誠を守るべきかなど、問題になりそうないかなる事柄についても、悩んだりしなかったのです。まったく悩まなかったのです。

行動することが好ましいかどうかについては議論したかもしれません。しかし行動して成功を収めることはできないことを示す多くの理由があったのです。そして怯えていたかもしれません。怯えるだけの十分な理由はあったのです。

これらの人々は、たとえ政府が合法的なものと認めた場合にも、犯罪はあくまでも犯罪であることを確信していました。そしていかなる状況にあれ、自分だけはこうした犯罪に手を染めたくないと考えていたのです。言い換えると、こうした人々は義務にしたがってこのようにふるまったのではなく、周囲の人々にとってはもはや自明ではなくなったとしても、自分にとっては自明と思われたものにしたがって行動したのです。

ですからこうした人々の良心は(良心と呼ぶべきものだとして)、義務という性格はおびていませんでした。「わたしはこんなことをすべきではない」と考えたのではなく、「わたしはこんなことはできない」と考えたのです。

(引用元:ハンナ・アレント著『責任と判断』 P95-96)

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28歳のときに起業し、セミナーやコンテンツ販売を何年か行うも途中で挫折。今は再出発のために某飲食店のアルバイトを通してチームビルディングを実践中。個人ではコーチング、オウンドメディアのプロデュース、小説の執筆などを行っています。
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Comments (30)
  1. 絶対善 より:

    「何故、人を殺してはいけないの?」

    日本では、子供が発した、この問題の答えを未だ出せずに四苦八苦していて、子供を納得させる答えはまだ出せていない。「決まりだからだ」とか「お前も殺されたくないだろう」などと説明するだけである。

    しかし、私は絶対善は種族保存、公の為であるという考えから、子供が納得するであろう答えを考えた。

    「君の家族にとって一番大切なものは何かな? 家?お金?違うよね、家族の命だよね。そして君にとって一番大切なもの、つまり家族の命を守ることは正しいかい?」「正しいと思います」「だよね。君の家族の命を守ることは絶対に正しいよね」「はい」「自分の家族の命を守るのは絶対に正しいなら、他人の家族を殺すことはどう思う」「絶対にやってはいけないことだと思います」「そうだろ?絶対にやってはいけないだろう?君はもう自分でちゃんと分かっているじゃないか、自分でしっかりと分っているんだから、もうそんなことを二度と言ってはダメだぞ、いいな!」「はい、わかりました」

    どうであろうか、このように説明すれば子供たちも納得するのではないだろうか。

    1.   より:

      >しかし、私は絶対善は種族保存、公の為であるという考えから、子供が納得するであろう答えを考えた。

      こんな主観で創られた自分ルールを元に納得させようとか馬鹿にしすぎ

  2. 名無し より:

    結局、一定の条件下でなければ答えはない…というのはイマイチ納得できない

    1. 杉野裕実 より:

      名無しさん

      コメントありがとうございます。こうして不満をぶつけていただくと、今後の記事を書くのに参考になります。
      ちょっとキツイ物言いに感じるかもしれませんが、以下で名無しさんが納得できない部分を補足させていただきます。
      名無しさんを論破して貶めようなどという気は一切ないので、あらかじめご了承ください。

      当記事の内容は人ではなく物で考えた方がご納得いただけるかもしれません。
      例えば「なぜ物を壊してはいけないのか」という発言について考えてみましょう。
      この世には壊した方がいい物(老朽化したビルなど)と壊してはいけない物(他人が大切にしている壺など)があります。
      これらをすべて同じ「物」として扱うことはできませんよね?
      現実には壊していい物と壊していけない物の両方が存在するワケですから、その区別をなくして1つの「物」として語ることはできません。
      人の場合もこれと同じです。

      現実には殺しても許される人(死刑囚)と殺してはいけない人(みんなから尊敬されている人)がいます。
      この現実を無視して両者を同じ「人」としてすべての人を扱うことはできない(許されない)ということです。
      名無しさんは自分の母親と他人である僕を「同じ人だから」という理由だけで同等に扱うことができるでしょうか?
      名無しさんにとって自分の母親と僕とでは明らかに関係性(感じている価値)が違うワケですから、同じ「人」として語ることも扱うこともできないのです。

      ちなみに「一定の条件下でなければ答えはない」ではなく、「現実にあてはめなければ答えはない」が正しいです。
      誰の子供でもない人って、この世に存在しませんよね?人は絶対に誰かの子供です。これは条件ではなく現実です。
      だから僕らには「なぜAさんの子供を殺してはいけないのか」「なぜBさんの子供を殺してはいけないのか」という問いにしか答えられません。
      繰り返しますが、AさんやBさんの存在は条件ではなく現実です。
      わざわざ条件を設定しているワケではなく、現実を語るとこうなるということです。

      この辺でご納得いただけたでしょうか?
      また何か意見や感想があればコメントしてくださいませ。

  3. 名無し より:

    「なぜ人を殺してはいけないのか」
    この質問には感情論でしか返せないと思われがちですが、そうではありません。

    人間に備わった「生存欲求」が全てだと思います。
    ただ、「生きたい」と思う。理由は分からない。本能だから。

    つまり生物学的に説明すれば完璧なのです。
    生物は、必死で”生きよう”とする。生きるために、できるだけ長く生きるために、環境に適応するために進化までしている。これは人間が造ったシステムではない。自然界の摂理である。だから、完璧に客観的な理由で「殺人はダメなこと」と説明できる気がする。
    “人間”ではなく、”自然界”が、
    「生きることは何よりも大切なこと」
    「できるだけ長く生きること、子孫繁栄は素晴らしいこと」
    と教えてくれているのだから一切、感情論は無い。
    自然界に感情があったら別の話だが。

    1. 杉野裕実 より:

      コメントありがとうございます。
      本能ですか、なるほどですね。

      この返信を読まれていたら1つだけ質問に答えていただいてもいいでしょうか?

      人間を殺しまくる大量殺人鬼もやはり殺して(死刑にして)はいけないと思いますか?
      自分の大切な人を殺した相手が目の前にいても「自然の摂理だから仕方ない」で諦められますか?
      客観的にダメな理由を説明できても、現実的に納得させることはできないと僕は思います。
      仮に名無しさんの言っていることが絶対的に正しいとして、死刑についてはどう説明されますか?
      もしよかったらご意見をお聞かせください。

  4. bbb より:

    「なぜ人を殺してはいけないか」
    に対して、自分なりにお答えします。
    最初に断っておきますが、私は一般の学生であり、私の主張にはなんら専門的な要素はございません。
    あくまでも一学生の戯言としてお受け取り頂ければ幸いです。

    さて、問いの答えですが、私は「法律でそう決められているから」と断言します。しかし、それだけではここでも記載されている通り、根拠として薄いのは明白です。なので、今回はもう少し掘り下げて説明します。
    この説明をする上で欠かせないのが、「国」です。私は現在日本に在住していますが、私はこれを「日本に住んでいる」ではなく、「日本に住まわせてもらっている」と捉えています。
    私だけではなく、私達は日本に住む上で、税金というものを納めているはずです。それは住民税、消費税などのあらゆる税全てを総称した意味です。
    これはつまり、我々が日本に国民として認められるための「使用料」のことであり、また日本も日本に住まわせる代わりに、「法律」という形で我々にルールを押し付けているのです。そして、ルールを破った者に「刑罰」を与えることで、そのルールの正当性を国民に訴えているのです。
    そうやって今まで日本は国として発展し続けてきました。法律とは国の存続に欠かせない存在であり、ルールを守った者だけが「国民」として受け入れられるのです。
    なので、ルールを守れない人が日本では糾弾されるのです。
    この前提を踏まえ、「なぜ人を殺してはいけないか」を考えると、「法律で決まっているから」にも納得できるかと思います。

    なぜ殺してはいけないか?→法律で決まってるから→なぜ法律でそう決まってるのか?→国の存続のためだから→なぜ国の存続のために人を殺してはいけないのか?→国には人が必要だから

    では、なぜ日本には「死刑」があるか?ですが、これは「小を殺して大を生かす」の理屈なのです。日本はこれまで、「小を殺して大を生かす」を続けて発展を続けてきた国です。悪をもって悪を討つとも言えるでしょう。言わば、刑罰は必要悪なのです。
    ルールを守らない小より、ルールを守る大を優先する。
    その結果が「死刑」です。
    これは日本に限った話ではないですよね。
    今の北朝鮮に対する各国の認識も根源的にはこれと同じ理屈ですね。なぜ北朝鮮が危険な国として警戒されるかと言うと、北朝鮮が世界に憎悪をばらまく存在であると思われているからです。
    だから、悩みのタネである北朝鮮を、世界は目の敵にしているというわけです。これも上述の「小を殺して大を生かす」と同じ理屈ですよね。

    つまり、人間は「種族」として、繁栄のためには「小を殺して大を生かす」を必要悪と考えている生き物なのです。
    なので、「なぜ人を殺してはいけないか」は、「人として」ではなく、「国民として」法律を守らなければいけないから。が答えではないでしょうか。
    種族の繁栄のために、法律は守るべきものなのです。それが我々人間の使命である、と答えます。

    1. 杉野裕実 より:

      素晴らしい解答ですね。見事です。これまで僕が見た答えの中で一番説得力があります。
      ただ・・・惜しい!!(><)自分の解答を読み返してみてください。
      「小を殺して大を生かす」って書かれてませんか?「小」を殺しちゃってますよね?
      これって大勢の国民に害をもたらす殺人鬼は殺してもいいってことじゃないんでしょうか。
      「なぜ人を殺してはいけないのか」を問うているのに、殺してもいいと言ってしまっています。
      ちなみにこれが民主主義の成れの果て、全体主義です。

      これについてどう思われますか?
      またよかったらコメントくださいませ。

  5. my より:

    そもそも、
    「人がしてはいけないことはない」
    が答えだと思っています。

    ただ、自分には感情や社会的立場等があり、最終的に「したくない」になります。

    自分の家族や好きな人を全て殺すと確実に分かっている人がいたとしたら、感情や社会的立場を失い、牢屋にいっても悔いはないと思い、殺すかもしれない。

    ただ、他の人からみるとその殺してもいいと思った人は、とても大事な人であるという人もいます。

    その人から見たら、それはその人が「したくないこと」、「もしくはできないこと」になる。

    人はなぜ人を殺してはいけないの?
    の答えは、
    そもそも、人がしてはいけないことない、という前提の元での回答になると思います。
    大抵の場合、殺人を許可して、自分の殺されたくない人が殺されたら悲しい。
    それを防ぐには、人を殺してはいけないというルールを決めれば大抵の皆が幸せになる。
    ルールなんかくそ食らえという人が悲しいことに存在するから、罰がある。

    人を殺してはいけないというのは、
    自分を含む大抵の人みんなが、悲しんだり、損したりしない様に決めたルール。

    ただ、人がしてはいけないことは、本質的に考えるとない。

    が、僕の考えです

    1. 杉野裕実 より:

      人がしてはいけないことはない。僕もそう思います。
      現実に存在するのはその人がしてはいけない「と思っていること」、つまりmyさんのおっしゃるルールだけです。
      何かをしてはいけないというルールを決められるのは、究極的にはその人本人しかいません。
      だから「誰を殺してはいけないと思うのか」は議論できるけど、人そのものを殺してはいけないかどうかは議論の余地がないワケです。
      僕らが言えるのは「私は~だから殺してはいけないと思うけど他の人はわからない」ということだけ。
      「私は」という主語を消した時点で、それはもう現実ではないのです。

      コメントありがとうございました。

      1. my より:

        人がしてはいけないことはないが確定なのであれば、私はそもそも人なので、人を殺してもよいということになりそうですがこれについてはどう思いますか?

        1. 杉野裕実 より:

          「人」がしてはいけないことはないですが、「私」や「あなた」がしてはいけないことはたくさんあります。
          何をしてはいけないかはその人の家族や国、宗教、価値観などによって異なりますが、僕らが親や友人や無実の人を殺してはいけないというルールは基本的に誰の現実にも存在します。
          この「人」と「私」や「あなた」の違いを説明したのがこの記事です。僕の考えはそこに書いた通りです。
          「人」という誰でもない存在を対象にした場合、それを殺してもいいか否かに答えることはできません。

    2. my より:

      「私」が「あなた」を殺してもいいと思ったら、人を殺しても良いってことですか?
      「私」は「あなた」をいい人と思っていて、「あなた」を殺してはいけないと思ったら、人を殺してはいけないになるってことですか?

      ということは、人を殺していいかどうかはその人次第という曖昧な答えになるのでは?と思います。

      1. 杉野裕実 より:

        >「私」が「あなた」を殺してもいいと思ったら、人を殺しても良いってことですか?
        >「私」は「あなた」をいい人と思っていて、「あなた」を殺してはいけないと思ったら、人を殺してはいけないになるってことですか?

        この質問は主観と客観、現実世界と抽象世界の話が混同しているので答えられません。
        この違いが理解できないかぎり、僕の話はmyさんには通じないと思いますし、議論も成り立ちません。
        唯一言えるのは「人を殺してもいいかどうかは場合による」ということだけです。
        死刑や戦争、正当防衛による過失致死などがその例です。
        人によっては映画アルマゲドンのように人類全員の死より偉大な英雄1人の死を望むことで間接的に人を殺す場合もあるでしょう。
        これ以外の例で人を殺していい場合があるかどうかはその状況になってみなと分かりません。
        人を殺すことがいいか否かを議論したいなら、具体的な状況や例を挙げて話してください。
        そうしていただければ僕も応じますので。

        ちなみにmyさんは何を目的にコメントをされているのでしょうか?
        よかったら教えてください。

        1. my より:

          単純に自分の考えがどうなのか議論したかっただけです。ありがとうございました。

  6. 通りすがり より:

    何故人を殺してはいけないか?は、
    根本的には、法律の問題でもなく、倫理の問題でもないでしょう。
    何故人を殺してはいけないかは、何故人を殺すことに人は不快や憤りを感じてしまうのか?という問いでもあるでしょう。
    何故、人は人がいじめられている様子を見ると不快に思うのか?憤りを感じるのか?
    この感情は殆どの人が持っている為、社会の中で共通認識を形成し、より強固なものとなっているのでしょう。
    しかし、その不快な感情は何処からやってくるのか?いつ、何処で形成されるのか?ということです。
    恐らく、狼に育てたられた狼少年は人を殺すことに罪悪など感じないでしょうね。育て親の狼を殺せば悲しむでしょうが。
    あとは想像通りです。

    1. 伽藍の底流 より:

      コメント失礼します。
      人が殺人に不快感や憤りを感じるのかなついての自論です。
      殺したい程憎いという感情が湧くだけ、つまり運良く殺人が犯せる環境を伴わなかっただけという状況に巡り合わせる可能性は誰しもにあるが、
      たまたま環境と殺人的思考が重なってしまった殺人者を自分、あるいは一般人とははなから違う異端とみなすことで自分と殺人者は根底から異なるものであると区別し心の安寧を守る自己防衛の思考プロセスと同じ原理、
      つまり不快感や憤りを感じる事は自分と犯罪者とを全くの別種として捉え自己の中に犯罪的思考は潜んでいないと思いたいという心の深層の願望なのではないかと思います。
      詳しくはまた書きたいのでご意見くださると嬉しいです。

      1. 通りすがり より:

        この場で、自分と他人を心理分析する意味が分かりません。
        ここでの議論は、あくまで、「人は何故・・・」です。
        自分も他人も、善人も悪人も関係ありません。時代も環境も関係ありません。
        哲学するとは、普遍真理を追求することであって、個別的な精神分析を披露することではありません。

  7. 伽藍の底流 より:

    専攻分野も全く哲学的要素を介さないど素人の大学生ですが、有識者様のご意見を拝聴したくコメント失礼します。
    人を殺してはいけない理由について回答させてください。例として以下で殺人を犯した人という語を使用しますがそれは快楽殺人を目的とした精神疾患者ではなく突発的に人を殺してしまった精神健常者であると定義します。
    まず殺人というのは特異な「思考」というよりも特異な「環境」に依って形成される行為だと私は考えます。
    恐らくという主観的な判断にならざるおえず申し訳ないのですが、多くの人はその生を終えるまでに一度や二度殺したい程憎い、あるいは恨めしいといった感情に思考を支配される経験をすると思います。
    ただ人目の有無や理性の壁など何らかの要因が歯止めとなり普通は思い留まります。しかしそこに運悪く殺人を犯せる「環境」(例えば密室状況だったり)が重なってしまった時に殺人は起きていると思うのです。極端な例になりますがもし無人島で2人きり、そこで殺したい程腹の立つ出来事が発生した時にたまたま手には鋭利な刃物が、そして相手はこちらに背を向けている、といった状況に身を置いたとします。私はそんな状況でも絶対に殺人を犯さない!と断言することはできません。
    ここで着目して戴きたいのは殺人を犯した人と犯さなかった人の違いは特異な「環境」の有無であり、その思考プロセスには変わりはないということとこのような殺人を犯しそうになる思考に陥る可能性は人間社会に生きている以上十分にあるという点です。
    つまり殺人前において殺人者と私たちに人間的、あるいは精神、人格的な相違点見受けられないというのが私の自論になります。
    しかし殺人後(状況を揃える為、殺人者は完全犯罪を成し得、バレることなく一般生活を送っているとします)は大きな相違点が生まれます。具体的に言いますと今後また同じく殺してしまいたいぐらい腹が立つ出来事が起きた時に【思い留まる】、【友達に愚痴る】、【twitterに投稿してストレスを発散する】といった我々が普段思いつきそうな発想の選択肢の中に【殺す】という項目が現実味を持って追加されると思うのです。経験とはつまり同じシチュエーション上での選択肢の増加ですからこういった違いが生まれてくると思います。
    だからこれは殺人以外(例えばポイ捨てなどでも)の事にも当てはめる事ができると思いますが、社会で生きる上で必要の無い無駄な選択肢を増やさない為、これが人を殺してはいけない最たる理由だと思います。人を殺してはいけない、というより人を殺すという発想に現実を帯びせてはいけない、またそう至る要因となる経験をしてはいけない。が、正しいのではないかというのが私の考えです。
    私は何らかの犯罪的思考に陥った際、上記の理由で思い留まるようにしています。

    主観ばかりの長文駄文失礼しました。
    厚かましいですがコメント戴けると嬉しいです。

    1. 杉野裕実 より:

      伽藍の底流さん、コメントありがとうございます。

      伽藍の底流さんが前提としているのは殺人を望まない人が殺人を犯してしまう場合ですよね?
      そうやって前提を設定すれば伽藍の底流さんのように殺してはいけない理由を説明できる、というのがこの記事の僕の主張です。

      でも正当防衛とか交通事故とかでも殺人って起こり得ますよね?
      こういう前提になると「自分が殺されそうなら相手を殺しちゃっても仕方ないよね」みたいな意見がありうるワケです。

      これは現実味が云々とか、要因となる経験が云々とか、そういうのとは関係のないところで起こります。
      別に伽藍の底流さんが間違っているというワケではなく、もっと他の前提も考えてみたら面白いんじゃないかと思うんですよね。

      今回の意見は1つの意見として置いといて、殺人って結構バリエーションがあるので、死刑とか過労死とか自殺とか不謹慎だけども、そういうのも考えてみると新しい視点が得られるかもしれません。

  8. 通りすがり より:

    殺人に対する不快や憤りについて、「差別化の自己防衛の思考プロセス」だか「深層心理」だかなんだか知りませんが、現実の世の中は 殺人を (不快に思う人) が圧倒的多数を占めていることは疑う余地がない。人は人を殺をしてはいけないことを本能的に知っており、そのことに不快や抵抗が湧き上がるのは否定出来ない事実なのです。人の感情が何故だかそのように出来ていることは、長い間の歴史的謎です。それが民主社会の中で共通認識を強化してきた。
    道徳律の発生については、過去数千年の哲学論争を見ても明らかなように、結論から言えば不毛な議論に終わるしかない。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「語り得ぬものは沈黙しなければならない」としか言えないが、個人的には、胎児、幼児が母性から受け取る「愛」が源だと考えている。

  9. lplp より:

    安楽死という考えは???どう説明するんですか??

    1. 杉野裕実 より:

      誰を安楽死させるのか具体的な例を挙げて質問してください。
      みんなから尊敬されている人を安楽死させるのか、死刑囚を安楽死させるのかではまったく事情も論理も異なるので。

  10. パンダ より:

    人を殺してはいけないなんて、法律がー、道徳がーって言い訳できるが
    結局のところ、理由なんてない別に人を殺してもいいと思うが
    人を殺すということは、次は自分が殺される可能性も出てくる
    社会全体で「殺人」というものに神経使ってる、いつ、どこで、だれでも殺してもいいが
    次の瞬間そいつは、「殺人」を犯したから、危ないから「殺人犯」を先に殺さないとって

    結論、社会の中で生きて行けなくなるから
    殺害を犯した人間は、自分が殺されてもいい状況を作ってしまうので殺さない
    ↑僕が殺人を犯さない理由です。

    追伸
    死刑は、先に殺した人の末路です、次に自分が死んでしまう

  11. いにしえ より:

    高校で福祉教科を指導しています。
    大変興味深く読ませて頂きました。
    哲学は知りませんが、好きです。

    「なぜ人を殺してはいけないのか」
    この質問は、「なぜ」を問うている質問なので、「人を殺してはいけない」というのが前提であると言えます。

    殺してもいいとか、殺してはよくない、の議論を行うための質問は、「人を殺してはいけないか」であるべきだからです。

    条件や現実的な根拠は置いといて、与えられた質問が「なぜ」である以上、答えとしては「〇〇だから。」とならなければなりませんよね。
    つまり質問者は、人を殺してはいけないという思想について、一定の理解があると言えるのではないでしょうか。

    人は、社会的な動物です。社会的とはどういうことか、それは思想があるかどうか、かと思います。
    そして、思想の具体化は、宗教です。信者でなくても、人は宗教という具体化された思想や文化を基に生活しています。思想を基に、人格も形成されます。
    例えば日本人の多くは、仏教の思想を生活の中に取り入れて、活動しているように。
    そして、世界の思想や宗教を見ても、「人を殺してよい」という思想はないと思われます。結果として殺人を犯したとしても、宗教的には「救う」だったり「天に還る」であったりと、殺すことへの肯定ではなく、思想のため手段の一つに過ぎないのではないでしょうか。殺人そのものを、してもよいという思想はないでしょう。
    日本の処刑も、歴史的な背景で考えれば、地獄に堕ちるための手段であったはずです。

    長くなりました。私なりの答えは、「人にはそういう思想がないから。」です。ただし、思想のための手段として人を殺す選択をしてしまう人もいることを、付け加えなければいけないので、完全な解答ではないですが。

    1. 杉野裕実 より:

      いにしえさん
      お返事が遅れてごめんなさい。

      宗教や思想という視点からの答えですね。なるほどです。
      最後におっしゃっている「思想のための手段として人を殺す選択をしてしまう人」というのは、まさにISISのような人たちのことだと思います。
      彼らは先進国から強い非難を受けていますが、歴史的に見れば欧米諸国も一昔前に彼らと同じことをやっています。
      彼らがアフリカや南米、オーストラリアの原住民に何をしたかは具体例を挙げるまでもありません。
      だとすれば時代的な違いはあるものの、多くの人は「思想のための手段として人を殺す選択をしてしまう人」である、ということにならないでしょうか?
      これが正しいならば、いにしえさんの答えは覆るんじゃないかと思うんですよね(いにしえさんの答えが悪いということではありません)。

      いにしえさんが「思想を基に人格が形成される」とおっしゃっているように、欧米諸国が行ったこともある種の思想がベースになっています。
      近代を思想と呼ぶかどうかは議論の余地がありますが、近代という価値観や考え方が欧米諸国にあーゆーことをさせたわけです。
      ISISだけが特殊な思想なのではなく、少なからず僕ら人間(近代的個人)の根っこには「手段として人を殺す」という選択肢があります。
      みんな(多数者)が平和であるために異端(少数者)を殺す。多数決というのも1つの殺人なんですよね、残念ながら。

      長くなりましたが、そもそも人間ってなんだろ?みたいな根っこを探っていくと、本当に何が正しいのかわからなくなります。
      でもこういうところに向き合うのが哲学の楽しさなんじゃないかと僕は思っています。

      コメントありがとうございました(^^)

      1. いにしえ より:

        コメント頂けるとは!

        ニュアンスの問題ですが、「思想の実現ための殺人」と「人を殺してはいけない」というのは、全く矛盾してないと思うんです。
        「人を殺してはいけない」からこそ、危険な思想になるほど殺人という手段をもっていると思います。
        現実として、生かす殺すがあるにしても、やはり「殺人」という思想はないと思います。
        また何か、問題提起などしてくれればと思います。

  12. きー より:

    まずは、なぜ人を殺してはいけないのか?
    この質問は抽象的過ぎると考えます。
    抽象的なことは前提を定義しないと答えが絞れないので前提条件を人、私、あなた等定義付けが必要だという話には共感しました。

    その上で私は子供に質問をされたとしてこう答えると思います。

    『人は必ず死にます。それと同じように人は人を殺すことが物理的に出来ます。
    ただし、出来ることと、やっていいことは違います。
    出来る事の中で大人はやって良いこととやってはいけないことを皆で話し合って決めました。
    それが法律です。
    話しあいの結果日本では理由もなく人を殺すことはやってはいけないことと決まりました。』

    子供の場合はまず質問を正しく認識させてあげることが答えになると思います。

    子供の質問は

    『日本では理由なく人を殺すことはいけないことと何で決まったの?』
    『人を殺す行為そのものが悪いことなの?』

    が正しくありませんか?

  13. 水饅頭 より:

    「人を殺してはいけない」というのはあくまで原則であって、どんなときでも必ず守らなくてはいけないという性質のものではないですよね。例として出している戦争しかり、死刑しかり。正当防衛もあるでしょう。それすら否定するならそれはもはや「宗教」であり「思想」の一つに過ぎません。
    では、なぜ一般に殺人は忌避されるのか、と考えると、「本能的な理由」「社会的な理由」があるかと思います。

    まず本能としては人間には共感能力がありますので、「人が殺される」という事実に対して当然拒絶反応が出ます。殺されたい人はあまりいないでしょうから。そのため、一般的な人は無意識のうちに人を殺すという行為自体を忌むべきものとして捉えていると思われます。よく言う「自分が殺されたくないから」「殺人は悪だから」などの説明に繋がるかと思います。理屈じゃなく感覚的に悪いことだと思うからやっちゃいけない、という流れです。
    共感の問題なので当然、殺される対象に共感できなくなればひっくり返ります。大量殺人犯などは「自分とは違う悪人」と捉えることで共感がなくなり、感情的な忌避感がなくなることで「危険で排除すべき相手」となり殺人が許容されます。むしろ被害者に共感して憎しみすら感じることで積極的に殺害すべきとの感覚になる人も多いのではないでしょうか。
    戦争時の敵国人を殺すのも相手を同じ人間ではなく「敵」として捉えることで、人種差別の虐殺なんかも同じ人間として見ないことで許容するようになるのだと思います。
    つまり、共感出来ない相手に対する殺人の否定には感情的な説得は無意味です。これは殺したいほど憎む相手がいる場合や、そもそも共感能力に欠陥のあるサイコパスの場合には本能的な殺人否定が出来ないことになります。なので、本能の観点からの否定だけでは説明不足となります。

    次に社会的な要因ですが、こちらは分かりやすいかと思われます。人間は共同体を作って生活する生き物ですので、その共同体に対してダメージを与える行為は許されないというものです。人を殺すことを許容する、ということは当然いつ殺されるか分からなくなるわけで、そうなれば共同体はまともに機能しなくなってしまうでしょう。故に、法律で殺人を禁止し、あるいは社会から締め出すことで抑止と危険分子の排除を行い、共同体を殺人という行為から保護しています。この場合死刑は危険分子の排除のためですし、戦争は共同体全体の利益になるならば許容されます。この観点から個人が殺人を犯してはいけないのは、「共同体から排除、己が殺害されるリスクが発生するため」という説明になります。
    ただし、これだけでは「バレなければ問題ない」という結論になってしまうため、これだけで説明するのもまた片手落ちでしょう。(サイコパスの人間が凄惨な事件を起こすのはこちらの抑止しか働いていないからです)

    結論として、多数派の人間にとっては殺人は本能的に忌避すべきことであり、また社会的にも許容されていないから「それを覆す理由がなければ原則として」人を殺すことは許されない、といえるかと思います。

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