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「なぜ人を殺してはいけないのか」に哲学的に答えよう

食べちゃダメなのか
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ども、杉野です。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、誰もが一度は考えたことがあると思います。

殺しちゃいけないのは誰でも知ってるけれども、改めて「なんで?」と聞かれると困りますよね。

もし自分の子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか?

悲しむ人がいるから、自分が殺されたくないから、法律で決まってるからなどなど、ネット上には参考になる回答がたくさんありますが、

実はそのどれもがこの質問に答えていません

みんなそれに気付いていないから、誰もが納得する答えを出せないのです。

ちょっと考えてみてください。

悲しむ人がいなければ人を殺してもいいのでしょうか?

自分が殺されてもいいと思っている場合は人を殺してもいいのでしょうか?

法律なんてどうでもいいと思っている場合は人を殺してもいいのでしょうか?

ネット上の意見は、こういった反論に答えることができません。

それは結局、みんな「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えていないからなのです。

そこで今回は、ネット上の様々な意見を取り上げて不完全な部分をあばき、そこからなぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えられないのか、どうすれば答えられるのか、という解説をしていきます。

自分の子供にはどう答えてあげればいいのかも紹介しますので、よかったら参考にしてみてください。

 

1.「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対する回答例

ネット上に散らばっている意見を一覧にまとめると、ざっと以下のようになります。

  1. 誰もが殺されたくないと思うから
  2. 人権侵害だから
  3. 相手の希望や未来を奪うことになるから
  4. 神が作ったものは尊重されなければならないから
  5. 人を殺してはいけないという法律があるから
  6. 取り返しがつかないから
  7. 僕らは既に殺してはいけないことを知っているから
  8. 殺された人の家族や友人が悲しむから
  9. 社会が殺してはいけないと要請するから
  10. 「死にたくない、生きたい」という本能が備わっているから
  11. 生産性が失われるから
  12. 人殺しは悪だから
  13. 社会からハブられるから
  14. 人のものは奪ってはいけないから
  15. 遺伝子の多様性が失われるから
  16. 人類が滅びるから

ぶっちゃけ、世間のことをよく知らない子供をごまかすだけなら上記の回答で十分だと思います。

僕も人を殺すのは問答無用でダメだと思いますし、「自分が殺されたら嫌だろ?」とか「パパやママが殺されたら悲しいだろ?」とか、それだけで大抵の子供は納得するでしょう。

でも僕らが生きる現実には例外があります。死刑や戦争です。

人を殺すことを禁じている法律が、人を殺すことを正当化している死刑。

人を殺してはいけないと教えている大人が、人を殺しに行く戦争。

人を殺してはいけないのなら、なぜ戦争や死刑は許されるのか。

これを「それは例外だから」とか「仕方ないから」と言うのは逃げだと思うのです。

だって人を殺しちゃいけないというのは、「絶対に」殺しちゃいけない、って意味なんだから

だとすれば、この死刑や戦争という矛盾を解消することは、僕ら大人に課せられた責任なんじゃないでしょうか。

 

2.「なぜ人を殺してはいけないのか」にみんな答えてない?

死刑や戦争を持ち出せば、上記のすべての回答が不完全だということは分かると思います。

じゃあなぜ不完全になるのか。

それは、彼らが答えているのが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いではなく、

 

なぜ「私は」人を殺してはいけないと思うのか

 

という問いだからです。

この違い、分かるでしょうか?

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは抽象的な答えを求めているのに対して、「なぜ私は人を殺してはいけないと思うのか」はその人の主観的かつ具体的な答えを求めています。

つまり多くの人は前者の問いを(無自覚に)避けて、共感ベースとなる後者の問いに(無自覚に)すり替えているのです。

 

3.「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えられない理由

僕らが「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えず、「なぜ私は人を殺してはいけないと思うのか」という問いに答えてしまうのは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という「抽象的な」問い自体が意味をなさないからです

 

例えば

  • なぜ江頭2:50を殺してはいけないのか
  • なぜ自分の母親を殺してはいけないのか
  • なぜ日本では脳死の人を殺してはいけないのか
  • なぜ私は大量殺人鬼を殺してはいけないと思うのか

など、具体的な人や文脈を設定すれば、僕らは何らかの答えを出すことができます。

江頭2:50が暴走しすぎて殺人を犯してしまった場合、「あんな奴は殺してしまえ」と思う人がいるかもしれません。

この例は冗談ですが、こういう具体的な人と文脈が決まれば僕らは判断できるんです。

でも、もしこれが「ある人があることをした場合に殺してもいいと思うか?」って聞かれたら分かんないでしょ?

ある人って誰だよ!あることって何だよ!

そう思うはずです。

でもそれが「なぜ人を殺してはいけないのか」が僕らに問いかけていることなんですよ。

だから僕らは「ある人」を「自分たちのような人」に、「あることをした」を「法律に従って生きている」という風に勝手に文脈を設定し、抽象的な問いを具体的な問い(私はどう思うか)にすり替えます。

それによって僕らは不完全な問いを完全なものにして答えているのです

 

4.「なぜ人を殺してはいけないのか」に答える方法

以上のことから、「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えるための2つの問いを導くことができます。それは

  1. 私は誰を殺してはいけないと思うのか、それはなぜか
  2. 私はどういう場合に殺してはいけないと思うのか、それはなぜか

の2つです。

この2つに答えることが、「なぜ人を殺してはいけないのか」に答えることになります。

1の問いを考えれば、私は母親は殺してはいけないと思うけど大量殺人鬼は死刑になって(殺されて)当然だと思う、という答えが出るかもしれません。

もちろん大量殺人鬼であっても殺してはいけないと思う人もいるでしょうし、誰であれ殺してしまえばいいと思う人もいるでしょう。

そう思う理由は人による、もっと言えばそのときの感情なども影響するので、一概に決まった答えはありません。

説得力を持たせるために人権の話や感情論や倫理観などの理屈をこじつけることは可能ですが、究極的にはその人がどう思うかに委ねられます。

殺しちゃいけないと分かっててもブチキレて殺してしまうことはあるし、自分の大切な人を殺されれば多くの人は犯人の死刑を望むでしょう。

どれだけ善良な人であっても、どれだけ理屈を並べても、場合によっては殺してもいいと思ってしまう

これが現実なのです。

 

5.子供にはどう答えればいいのか

じゃあ「なんで人を殺しちゃいけないの?」と子供に聞かれたらどう答えたらいいのか。

そこが一番の悩みだと思いますが、ここはハンナ・アレントという政治哲学者がナチス研究で見つけた1つの答えがヒントになると思います。

道徳が崩壊したナチス政権時代において、多くの善良な市民がユダヤ人の大量殺人に手を貸した一方で、そうならなかった極一部の市民たちがいました。

その市民たちになぜ手を貸さなかったのかをアレントが尋ねたところ、彼らはこう考えていたそうです。

 

「わたしにはこんなことはできない」

(引用元:ハンナ・アレント著『責任と判断』 P96より)

 

 

つまり彼らは、殺してはいけない理由や根拠なんて関係なく「自分には殺すことなんてできない」と考えていたということです。

僕も似たような経験があります。僕の場合は殺すじゃなくて「殴る」です。

小学生のときに友達と喧嘩して、背中やお腹や頭を殴ることは何度もあったんですが、どうしても顔だけは殴れなかったんです。

凄く感情的になって理性なんてぶっ飛んでるはずなのに、なぜか顔だけは殴るのをずっと避けてました。

多分「できない」というのはこういう感覚です。

感情の奥深くにある何かが作用して、一線を越えることができない。

そういう人間になりなさい、と子供に伝えることが親の役目だと思います。

要は、子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と質問されたら、

 

「それは場合による、けど、あなたはどんな場合でも人を殺せない、そんなことができない優しい人間になりなさい」

 

と伝えればいいんです。

善いか悪いかではなく「できない」。

これが現段階で僕が一番納得のいく答えです。

 

6.まとめ

なぜ人を殺してはいけないのか、という抽象的な問いに答えはありません(僕らは答えることができません)。

僕らが答えられるのは

  1. 私は誰を殺してはいけないと思うのか、それはなぜか
  2. 私はどういう場合に殺してはいけないと思うのか、それはなぜか

という2つの問いだけです。

しかしより重要なのは、この問いに答えることではなく、この問いの答えが仮に分からなかったとしても「殺すことができない」という自分を作り上げることです。

大事なのは問いでも根拠でもありません。

大事なのはいかに善く生きるかです。

そのことを忘れなければ、僕らもあなたの子供も、道を踏み外すことはないでしょう。人を殺すような人間にならないでくださいね。

ありがとうございました。

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7.参考

参考として、先ほどのアレントの著書の引用箇所を長めに載せておきます。非常に大事な話をしているので、読んでみてください。

 

道徳が崩壊したナチス時代のドイツにも、ごく少数ではありますが、まったく健全で、あらゆる種類の道徳的な罪をまぬがれていた人々がいました。こうした人々は、大きな道徳的な矛盾や良心の危機のようなものをまったく経験していません。「より小さい悪」とは何かとか、国や地下に対する忠誠を守るべきかなど、問題になりそうないかなる事柄についても、悩んだりしなかったのです。まったく悩まなかったのです。

行動することが好ましいかどうかについては議論したかもしれません。しかし行動して成功を収めることはできないことを示す多くの理由があったのです。そして怯えていたかもしれません。怯えるだけの十分な理由はあったのです。

これらの人々は、たとえ政府が合法的なものと認めた場合にも、犯罪はあくまでも犯罪であることを確信していました。そしていかなる状況にあれ、自分だけはこうした犯罪に手を染めたくないと考えていたのです。言い換えると、こうした人々は義務にしたがってこのようにふるまったのではなく、周囲の人々にとってはもはや自明ではなくなったとしても、自分にとっては自明と思われたものにしたがって行動したのです。

ですからこうした人々の良心は(良心と呼ぶべきものだとして)、義務という性格はおびていませんでした。「わたしはこんなことをすべきではない」と考えたのではなく、「わたしはこんなことはできない」と考えたのです。

(引用元:ハンナ・アレント著『責任と判断』 P95-96)

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『モットチャント』の管理人兼ライター。オウンドメディアプロデューサー。

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Comments (5)
  1. 絶対善 より:

    「何故、人を殺してはいけないの?」

    日本では、子供が発した、この問題の答えを未だ出せずに四苦八苦していて、子供を納得させる答えはまだ出せていない。「決まりだからだ」とか「お前も殺されたくないだろう」などと説明するだけである。

    しかし、私は絶対善は種族保存、公の為であるという考えから、子供が納得するであろう答えを考えた。

    「君の家族にとって一番大切なものは何かな? 家?お金?違うよね、家族の命だよね。そして君にとって一番大切なもの、つまり家族の命を守ることは正しいかい?」「正しいと思います」「だよね。君の家族の命を守ることは絶対に正しいよね」「はい」「自分の家族の命を守るのは絶対に正しいなら、他人の家族を殺すことはどう思う」「絶対にやってはいけないことだと思います」「そうだろ?絶対にやってはいけないだろう?君はもう自分でちゃんと分かっているじゃないか、自分でしっかりと分っているんだから、もうそんなことを二度と言ってはダメだぞ、いいな!」「はい、わかりました」

    どうであろうか、このように説明すれば子供たちも納得するのではないだろうか。

    1.   より:

      >しかし、私は絶対善は種族保存、公の為であるという考えから、子供が納得するであろう答えを考えた。

      こんな主観で創られた自分ルールを元に納得させようとか馬鹿にしすぎ

  2. 名無し より:

    結局、一定の条件下でなければ答えはない…というのはイマイチ納得できない

    1. 杉野裕実 より:

      名無しさん

      コメントありがとうございます。こうして不満をぶつけていただくと、今後の記事を書くのに参考になります。
      ちょっとキツイ物言いに感じるかもしれませんが、以下で名無しさんが納得できない部分を補足させていただきます。
      名無しさんを論破して貶めようなどという気は一切ないので、あらかじめご了承ください。

      当記事の内容は人ではなく物で考えた方がご納得いただけるかもしれません。
      例えば「なぜ物を壊してはいけないのか」という発言について考えてみましょう。
      この世には壊した方がいい物(老朽化したビルなど)と壊してはいけない物(他人が大切にしている壺など)があります。
      これらをすべて同じ「物」として扱うことはできませんよね?
      現実には壊していい物と壊していけない物の両方が存在するワケですから、その区別をなくして1つの「物」として語ることはできません。
      人の場合もこれと同じです。

      現実には殺しても許される人(死刑囚)と殺してはいけない人(みんなから尊敬されている人)がいます。
      この現実を無視して両者を同じ「人」としてすべての人を扱うことはできない(許されない)ということです。
      名無しさんは自分の母親と他人である僕を「同じ人だから」という理由だけで同等に扱うことができるでしょうか?
      名無しさんにとって自分の母親と僕とでは明らかに関係性(感じている価値)が違うワケですから、同じ「人」として語ることも扱うこともできないのです。

      ちなみに「一定の条件下でなければ答えはない」ではなく、「現実にあてはめなければ答えはない」が正しいです。
      誰の子供でもない人って、この世に存在しませんよね?人は絶対に誰かの子供です。これは条件ではなく現実です。
      だから僕らには「なぜAさんの子供を殺してはいけないのか」「なぜBさんの子供を殺してはいけないのか」という問いにしか答えられません。
      繰り返しますが、AさんやBさんの存在は条件ではなく現実です。
      わざわざ条件を設定しているワケではなく、現実を語るとこうなるということです。

      この辺でご納得いただけたでしょうか?
      また何か意見や感想があればコメントしてくださいませ。

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