ども、杉野です。
自分の趣向に合った面白い学術書を見つけるのって難しいですよね。
これから紹介する本はほぼすべて僕の師匠に勧めてもらったものなんですが、どの本も恐らく僕の力だけでは見つけられなかったと思います。
一度知ってしまえばそこから芋づる式に他の面白い本も見つけられたりするんですが、やっぱり最初はある程度信頼できる人の助けが必要です。
そこで今回は僕が、あなたが学問にハマるきっかけになりそうな本をピックアップして紹介しようと思います。
僕が信頼できる人なのかどうかはともかく、ここで紹介する本が
ガチで教養を身につけるためのガチな歴史的名著
であることは客観的に明らかですので、紹介する本を読まなくても、それを手掛かりにアマゾンで関連書籍を見て自分が楽しめそうな本を見つけてもらえばいいんじゃないかな、と。
そんな感じで考えています。
ただ、ここで紹介するものは僕の趣向を強く表したものになっていますので、かなり偏っているという点だけ、あらかじめご了承ください。
「これだけは絶対読め!」という学術書を挙げろと言われたら、僕は真っ先にこの『精神の生態学』を挙げます。
僕はこの本から何度衝撃を受けたか知れません。
はじめてこの本を読んだときは「やべぇ、やべぇ、面白すぎる!(”Д”)」と興奮しまくりました(笑)
この本はベイトソンの論文集という位置づけになっているのですが、翻訳が素晴らしいからか、通常の論文のような堅苦しさはほとんど感じません。
内容は例えば
という、一見してまったくバラバラなことが語られています。
でもベイトソンの凄いのは、このバラバラに見える内容が、実は「精神」(彼の固有の言葉で、僕らが使うような意味ではない)という1つのもので繋がっている、という世界観です。
ベイトソンに言わせれば、カニのはさみの構造と僕らが物事を学習する仕組みは同じだったりするんですね。
「はぁ?」って思うでしょ?
そこがベイトソンの面白いところです(笑)
普通は誰もそんな突飛なもの同士の共通点なんて見つけられないんですが、彼は見つけちゃうワケですよ。
じゃあ彼はどうやってそんなものを見つけるのか。
その秘密はこの本で嫌というほど語られています。
この本のページ数は600ページを超えてますからね。
そういう物理的な意味でも嫌というほど語られています(笑)
ページ数がページ数だけに値段もそこそこ張るんですが、これだけはマジで家宝として代々受け継いでほしいと思うぐらいの本です。
少なくとも僕は、他の本を全部捨ててもこの本だけは持っていたい。
もし予算が許すなら、ぜひとも、ぜひとも、ぜひとも!買って読んでみてください。
間違いなく僕らの世界を広げてくれる一冊です。
『精神と自然』と『精神の生態学』はセットで読むと理解がいっそう深まります。
ただこっちはページ数が少ない反面、抽象度が高いんですよね。
後半になるほど何を言ってるのか分からなくなってきます。
でもそれがまた面白かったり(笑)
内容は『精神の生態学』と似ていて、
みたいな話が出てきます。
どちらの本も僕らの思考をひっくり返す、近代的パラダイムをぶち壊す話になっているので、教養を身につけるのには最適です。
僕らは口には出さないけども、お金は多ければ多いほどいいとか、子供は親や教師が育てなければならないとか、病気は治さなければいけないとか、そういう前提(思い込み)に支配されています。
こういった僕らには見え難くなっている「思考の殻」をことごとく突き破ってくれるのが、ベイトソンの素晴らしさであり、僕が彼の本を勧める理由です。
教養の本来の意味は、自分の思い込みや解釈にとらわれずに自由であること、です。
その意味で『精神と自然』と『精神の生態学』の2冊は、僕らに本当の自由をもたらしてくれる稀有な本だと言えるでしょう。
またベイトソンかよ!というツッコミは覚悟で『デカルトからベイトソンへ』を紹介します(笑)。
これは歴史的な価値観や世界観の流れを概観できる名著ですが、単純に読むだけでもストーリー展開があって面白いです。
どのように・どうやって僕ら人間の価値観や世界観は変化してきたのか。
その紆余曲折が分かりやすく描かれています。
中世・近代・現代の人々は何に人生の価値を見、何に問題解決を求めたのか。
それが『デカルトからベイトソンへ』の巨大なテーマの1つです。
これについては、具体的に中身を引用した方が分かりやすいでしょう。
日没の西の空に流れる赤い縞模様を見て、崇高な思いをたぎらせることは、誰にでもあるだろう。しかし、それらが何かをきちんと知ろうと思ったら、感情が告げることに耳を傾けてはならない。
その赤い色がひとつの数値なのだということ。そして、その点にこそ、リアリティの真の姿があるのだということ。われわれにとって「知」とは、そんな信念の上に築かれているのである。
(引用元:『デカルトからベイトソンへ』P47より)
これが僕ら(近代人)が前提とする価値観であり世界観です。
子供の人間性には目を向けずにテストの点数だけで成績を決める。
まさに僕らはそういう世界に生きてますよね。
しかし、その世界のひずみが明らかになるにつれて、理屈や思考ではなく、瞑想やセラピーなどの感情や身体から人間を癒すアプローチが盛んになってきました。
これについても『デカルトからベイトソンへ』に面白い記述があるので引用しましょう。
あらゆる人間的なセラピーは初元的参加に根ざしていると言ってよい。
芸術、ダンス、心療劇(サイコドラマ)、瞑想、肉体療法といった方法は、みなどれも突き詰めれば主体と客体の合体を目指しているのであり、詩的想像力、環境との身体合一を取り戻す試みなのである。
つきつめて言えば、優れたセラピストとは、患者にとっての錬金術の師なのであり、効果的なセラピーとは、基本的には魔術が体現していた本来的・有機的な秩序への回帰なのである。
(引用元:『デカルトからベイトソンへ』P144)
錬金術や魔術は中世の科学のようなものですが、上記の引用から、それがまた姿を変えて現代に蘇ってきていることが分かります。
スピリチュアルブームとかパワースポットブームとかもその1つ。
これがこの本のサブタイトルになっている「再魔術化」です。
中世という世界を支えていた魔術が、再び現代という世界を支え始めている。
その一連の流れが『デカルトからベイトソンへ』では語られています。
今蘇ろうとしている魔術とはどのようなものか。そもそもなぜ近代は生まれたのか。僕ら現代人は何をすれば人生の問題を解決できるのか。
そういったことに興味があれば読んでみると面白いと思います。
『生きるということ』は、現代人が抱えている根本問題を解決する方法が書かれた本です。
方法が書かれていると言っても、解決するのは「根本」問題、つまり人間の本質ですから、そう簡単にどうこうできる話ではありません。
ただ知っておくだけでも防げる問題は山ほどあるので、読むだけでも読んどけばいいんじゃない?とは思います。
この本には「持つこと」と「あること」の2つの在り方が示されています。
「持つこと」とは、知識を持つであったり、財産を持つであったり、何かを所有するということです。
この「持つこと」について、フロムはこんなことを言っています。
愛が持つ様式において経験される時、それは自分の<愛する>対象を拘束し、閉じ込め、あるいは支配することの意味を含む。それは圧迫し、弱め、窒息させ、殺すことであって、生命を与えることではない。
人々が愛と呼ぶものは、たいていが彼らが愛していないという現実を隠すための言葉の誤用である。
(引用元:『生きるということ』P72)
「持つこと」とは、要するに欲を満たそうとする在り方に他なりません。
しかし数え切れないほどの偉人たちが言っているように、それで幸せになれた人はいませんよね。
だからこそ、フロムは「あること」を大事にしようと言います。
「あること」とは、知識や財産や愛であること、つまり自分自身がそれらを体現するということです。
「あること」においては、お金をたくさん持つことがお金持ちなのではなく、お金を持つに相応しい人間として振る舞うことがお金持ちの証となります。
同様に知識や愛も、それを持っているか否かは関係なく、それを持つに相応しいか否かが問題になるワケです。
僕らが抱えている問題はすべて「持つこと」によって生まれていると言っても過言ではありません。
お金を持つからお金を失い、愛を持つから愛を失うのであって、「あること」を重視していれば何も失うものはない。
言うは易し、ですが、この本を読んで意識していきましょう。
『自由からの逃走』は僕が7年ほど前に自由について学んでいたときに読んだ本で、当時相当な影響を受けました。
内容はザックリ言うと、
多大な犠牲を払って僕ら(近代人)が手に入れた自由は、実は多くの人にとってまったく有難いものではなく、今の人々はむしろその自由の重みから逃げ出そうとしている
ということが書かれています。
こんなことを何十年も前に言ってた人がいたと知ったときは、そりゃ驚きましたよ。
スゲーなコイツ(; ・`д・´) って(笑)
実際、やりたいことが分からない人にとって自由は苦痛でしかないと思います。
何でも自由にやっていいよと言ったところで、彼らは「何をやればいいんだろ・・・(´・ω・`)」と悩み苦しむだけです。
それゆえに彼らは自分から自由を放棄する道を選びます。
何をやっても自由なのに、みんな一様にスマホを眺め、SNSを見たりゲームをしたり、周りと同じことばかりするワケです。
同じ時間に同じように通勤電車に乗り、同じように働き、同じようなものを食べ、休日でも同じようなことをして遊ぶ。
これこそ自由の放棄に他なりません。つまり彼らは与えられた自由を使いこなすことができないのです。
フロムはその解決策として自発性というものを挙げています。
これは翻訳者が選んだ言葉なので、実質的には主体性と考えていいでしょう。要は意志が大事だということです。
周りや時代に流されるのではなく、みずからの意志で行動を選択していくこと。これ以外に自由を使いこなす方法はありません。
もしあなたがいろんなものに流されて生きてしまっていると感じるなら、フロムに喝を入れてもらうのも1つの手かもしれません。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は通称「プロ倫」と呼ばれる、近代を支える社会学の古典です。
内容は、敬虔なクリスチャンが神様を信じてお金を稼ぐためにがんばった結果、資本主義が発展した、みたいな話です(笑)。
いや、笑いごとじゃなくて、これが見事につじつまが合ってるから面白いんですよ。
近代初期にキリスト教のプロテスタントにカルヴァンという人がいて、彼は予定説という独自の解釈を唱えていました。
予定説とは、人間はこの世に生まれた時点で天国に行けるか否かは決まっている、という解釈のことです。
それまでのキリスト教では、教会で懺悔をして赦しを乞えば誰でも天国に行けるという考えが前提だったのですが、カルヴァンの予定説はその前提を覆したワケです。
天国に行けるかどうかがあらかじめ決まっているなら、現世で何をやっても無駄ですから、そこから欲に溺れる生活が始まっても不思議ではありません。
でもカルヴァン派の人たちはそうならなかったんですね。
なぜそうならかったのかというと・・・。
ここから先は僕が言っちゃうと面白くなくなるので、本書を読んで確かめてみてください。
ホントに面白いですから。
ちなみに『プロ倫』は突き詰めれば成功哲学の本であり、どういう条件を満たせば成功できるのかということが書かれています。
そういう視点で読む人はあまりいないでしょうが、ウェーバーは何気に僕らの人生にダイレクトに関係のある話をしてくれているので、読む際はそこにも注目してみるといいでしょう。
今回紹介した中で一番読みやすいのは恐らく『生きるということ』なので、もしどれを読むか迷ったら取り合えずそれから読み始めてみるといいでしょう。
ここで紹介した本はどれも生涯にわたって、いや、次の世代になっても使えるものばかりです。時代がどれだけ進もうとも、人間の本質は変わりません。
読むのは時間がかかるかもしれませんが、そうするだけの価値のある本しか紹介していませんので、ぜひ諦めずにがんばってみてください。
これらの本はきっとあなたの殻をぶち壊してくれるはずです。
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